なぜこんなに中井久夫を読むと、

ああそうだなと感動するのか。

 

彼のカタツムリになりたいのでも、

見守る彼になりたいのでもなくて

 

カタツムリを見守る姿が

ただ見事に美しい。

 

 

「患者はカタツムリに似ている。

われわれは、閉じこもっている

カタツムリの貝殻の入口から

棒を突っ込むのは

ただ破壊的だということを知っている。

 

何に安心するのかはわからないが、

安全だと思うとカタツムリは

そろそろと頭を出しツノを出す。

 

すこし待ちくたびれたからといって

頭をはさんで

二度と閉じこもらないようにすれば

どうなるだろうか。

 

そんなことはせずに

しばらく見守っていると、

思う方向か否かは知らず、

カタツムリは動き出す。

 

思う方向に『指導』してやれば

よいかもしれないが、

そうすればわれわれは

『カタツムリはどこへ行きたいのか』

という情報を失う。

 

一般に一つ『指導』すれば

一つ情報を失うと考えてよい。

 

それにカタツムリはふたたび殻の中へ

入ってしまうかもしれない。

彼は一般に用心深い。

 

しかし崖っぷちへ

いってしまうこともあって、

その時は端的に警告し、

しばしばつまんで

安全なところへ戻すのが

理にかなっている。

 

つまり、緊急介入はありうるのだが、

その他の時は、

患者がどう感じ何を望んでいるかを

行動あるいは言葉の

はしばしから汲み取って、

患者の後を一歩おくれて

ついてゆくのがよいと私は思う。

 

「期待される治癒像」という主題の

議論がしばしばなされるが、

私には治療者の

途方もない思い上がりのようにみえる。

 

樹木は無限に高くならないし、

そのすべての小枝が

伸び切るわけでもない。

 

しかし、光と水と養分があれば、

樹の種類に従って自ずと樹容は定まる。

 

時にわれわれは日陰の不毛地で、

あまり水も注がないで、

枝の剪定ばかりに熱中してはいまいか。」

 

―中井久夫 著作集2