今日は、ブレーズ・パスカルの


【パスカルの賭け】

についてお伝えします。





 


パスカルはこう言いました。

 


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もし神が存在するとしたら、
信じることの見返りは無限に大きい。

だから、神が存在する可能性が低くとも
賭ける価値がある

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信仰をしながら僕と仲のいい
とても稀有な友だちが、
痛くこの考えを気に入っていました。

 


ここで鍵となるのは、
「無限の見返り」です。

 

パスカルは、
【無限に幸福な無限の生命】


が見返りであると述べています。

 


パスカルは、有限の存在が無限を
理解で把握することはできないので
(これは、デカルトと同じ論旨ですが)
賭けになるのだと言っています。

 

そこまでかけ離れた存在への信仰が
「無限の幸福」につながるわけない
と今では思うのですが。

 


もう一つ、そこで人は賭けています。
何を賭けるのか。


パスカルが言うには、
賭けるものは二つ。

理性と幸福です。


この二つを秤にかけて、
理性を捨てて幸福を
取ろうとしているんですね。

 


僕は、理性がなければ
人は幸福も味わえないと
思いますけれど

幸福のために理性を放棄することは、


僕には

【人間性の放棄】
に思えてならないのです。


ちょっとここのところ、
考えてみて下さい。

 

難しいかも知れないし、
異論が出るかも知れないので。

 


ただ僕は、ここから一つはっきりと
主張していることがあります。


僕の経験を話すと、時々聞かれます。

 

『宗教が全て間違っているとしたら、
人の生きる意味ってどこにあるんですか?』

『人間の救いってどこにあるんでしょうか?』

 


僕は、そういう時こう答えます。

 

無限の幸せという魅力を前に、
「理性」を、「人間性」を、
放棄せずにいるということ。

 

それを僕は自分の救いとしています、と。
(もう一つあるんですけどね、実は)

 


そして、
意識していないかも知れませんが、

その矜持、
「人間性を放棄しなかった」

ということ
多分あなたも、同じなのです。

 


さてさて。
今日はここまでにしましょう。

 


カルトや宗教の話をすると
「マルチ」も宗教みたいだよね、
あれって洗脳だよね、
という話しをよく聞きます。


実はこの、
パスカルの賭けと宗教の話し、
マルチの宗教っぽさに
とても関係があると考えています。


次回はそんなお話しをしたいと思います^^