会社で同僚に、

「ねえねえ、城月さん
どうしたら知的になれるの?」

と聞かれた。


“本を読めば”と
即答しようとして思いとどまる。


その人は、年十数冊くらいは本を読む。

しかも古典を読んでいたりする。
芥川とか。


それだけ本を読めば、
平均的日本人としては
本を読んでいる方だ。
(だから平均は当てにならない
とも言えるのだが)


さて、じゃあどうしようかと
考えて、こう返した。


「○○さんは、
どうしたら知的になったと思えるの?」


数秒考えて、○○さん。

「そういう切り返しがすぐ
出来るようになったら。」


前から時々考えているけれど、
「知的」とは何か、って中々難しい。

今僕が思う知的とは、
物事を決めつけないことで、
器の大きさと似ていて、

それには多分、
いったん自分の器を壊す必要が
あるだろうなと思ったりする。


人は反抗期に
疑わずに来た家庭と親というものを
相対化する。

そして、社会に出て自分を相対化する。

(上の二段階が出来ない人もいる)


その上で。

自分でなく、他でなく、
自他でなく、それ以外でもない。


どちらでもあること、中庸であることは
どちらでもない事でもあるのだが、

そのためには、
自分の器を疑いながら、
でもそこに戻らざるをえないのだ。