禅の世界と茶の湯の世界も近いものだが、
そこをよく行き来する言葉に「一期一会」
という言葉がありますね。
茶の湯では、
「別れの茶事」というものがあって、
客が帰られたあとに主人が一杯の茶を立てて、
「あの人はあんなことを話された、あんなことで
笑われたな」と別れをしのぶのだとか。
これも
「百歳の禅語(松原泰道著)」
からなのですが、
著者が戦後まだ
交通も不便な時代に島根に講演に行きました。
山口市常栄寺の臼井住職という
古い馴染がおられて、
帰りに京都で乗り換えて自分のところに
寄らないかと宿泊先にハガキが届いた。
是非会いたいと思って、京都につき
新聞をふと見ると、死亡欄にその人の写真が
乗っている。
何かの間違いじゃないかと思ったが、
やはり亡くなられていて
最後に力を振り絞って、掠れたような文字で
でもほとんど読めないような何か
書き置きが残されていた。
荒れて掠れて見えるのだけれど、
なんとか読むとこう読める。
「人間は一会一期
何事も丁重にしておかねばならぬ
死ぬるかも知れぬがもう遅い
任運自在」
さて。
突拍子もないことを言います。
僕は人は死んでも、他の人の記憶の中に
残って生きると思っています。
そして、人はいつふいに会えなくなったり
亡くなったりするか分からない。
つまり、今会える一期を大切にしたい。
それが僕の中にも残る。
一期一会、ですね。
もう一つ、あるインディアンの言葉で
逆があるのだと知りました。
彼らは、誰か死が近づいた人を送る時、
こう言葉をかけるといいのだと言います。
あなたが逝く時は、一人で行くのでは無い。
僕の一部もあなたと一緒に行くのだ。
だから、寂しくないだろう、と。
つまり、一会が一期となるのです。
さて、この著者の知人の方がこのように
思ったかどうかは分かりません。
分かりませんが、
もしかしたらあの最後の言葉
以前会った時に残した言葉、
一会一期となって残った自分に
後悔して伝えたいことがあったのかも
知れません。
そして、ここまでの言葉が何となく
共感できる、分かるなぁと思われた方は
分かるかも知れませんね。
そもそも人は、全会全期。
一期一会なのは決して死の瞬間だけでは
なくって、今この瞬間だって、
僕の中の誰か、誰かの中の僕がいて、
そうやって人は生きているわけです。
それをただ、何となく大切だなぁと
思えたら、幸せですね^^
そこをよく行き来する言葉に「一期一会」
という言葉がありますね。
茶の湯では、
「別れの茶事」というものがあって、
客が帰られたあとに主人が一杯の茶を立てて、
「あの人はあんなことを話された、あんなことで
笑われたな」と別れをしのぶのだとか。
これも
「百歳の禅語(松原泰道著)」
からなのですが、
著者が戦後まだ
交通も不便な時代に島根に講演に行きました。
山口市常栄寺の臼井住職という
古い馴染がおられて、
帰りに京都で乗り換えて自分のところに
寄らないかと宿泊先にハガキが届いた。
是非会いたいと思って、京都につき
新聞をふと見ると、死亡欄にその人の写真が
乗っている。
何かの間違いじゃないかと思ったが、
やはり亡くなられていて
最後に力を振り絞って、掠れたような文字で
でもほとんど読めないような何か
書き置きが残されていた。
荒れて掠れて見えるのだけれど、
なんとか読むとこう読める。
「人間は一会一期
何事も丁重にしておかねばならぬ
死ぬるかも知れぬがもう遅い
任運自在」
さて。
突拍子もないことを言います。
僕は人は死んでも、他の人の記憶の中に
残って生きると思っています。
そして、人はいつふいに会えなくなったり
亡くなったりするか分からない。
つまり、今会える一期を大切にしたい。
それが僕の中にも残る。
一期一会、ですね。
もう一つ、あるインディアンの言葉で
逆があるのだと知りました。
彼らは、誰か死が近づいた人を送る時、
こう言葉をかけるといいのだと言います。
あなたが逝く時は、一人で行くのでは無い。
僕の一部もあなたと一緒に行くのだ。
だから、寂しくないだろう、と。
つまり、一会が一期となるのです。
さて、この著者の知人の方がこのように
思ったかどうかは分かりません。
分かりませんが、
もしかしたらあの最後の言葉
以前会った時に残した言葉、
一会一期となって残った自分に
後悔して伝えたいことがあったのかも
知れません。
そして、ここまでの言葉が何となく
共感できる、分かるなぁと思われた方は
分かるかも知れませんね。
そもそも人は、全会全期。
一期一会なのは決して死の瞬間だけでは
なくって、今この瞬間だって、
僕の中の誰か、誰かの中の僕がいて、
そうやって人は生きているわけです。
それをただ、何となく大切だなぁと
思えたら、幸せですね^^