悲しさと経験と改善を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛する発酵は、人間にとって有益であればその名で呼ばれますけども

 

 

有益ではない、つまり有害であれば腐敗と呼ばれる、微生物による同一の過程です。

 

 

となると、或る発言にも、指南的なものと老害的なものは基本的に同一に存在するのは何となくの感覚でお分かりいただけるかと思っていまして、

 

 

老害と言われてしまったら、有益ではない、有害だと受け手に認定されてしまったという事になります。

 

 

発言、言葉などはそれ単独では成立しません。例えば「酒」でも、平安時代などでは神事などに用いられる稀少な存在だったでしょうけども、現在では容易に入手できて嗜好性にも高低があって、また人の立場などによっても受け止め方が異なるはずです。

 

 

生来の人間同士のコミュニケーションであれば、ある程度相手の立場や文化を理解してその差異を調整するのでしょうけども(近年よく言われる過剰な忖度は置いておいて)、とかく年齢を重ねると生理的影響なのか社会的経験なのかその調整機能が働きづらくなりコミュニケーションに悪影響を及ぼす事が高齢者には増えてくるよう。それが老害。

 

 

なんとなく、自分が10代の頃、1990年代までは老害的なものは見聞きしなかったような気がします。直接コミュニケーションを取る近距離的なものではなく、遠距離的なものが電話やテレビくらいしか主だったものがなかったからでしょうか。

 

 

それが2000年代に入るとネットでのコミュニケーションがメジャーになって、コミュニケーション量が爆発的に増えて、また多様なコミュニティとのコミュニケーションも容易にしました。そうなるとコミュニケーションの齟齬の量も当然増えて、とかく齟齬なものは目立ちます。だって現代の20代の価値観はスゴいですから。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何故自分が老害に想いを馳せているかというと

 

 

自分より年配の御仁の、若者に対する明らかな老害案件を耳にしてしまったからなのです。

 

 

思うに大きな要因の一つは高齢化社会にあるかと。昔むかしは55歳が定年退職だったのに、今では70歳まで働いて貰おうという動きすらあります。60歳過ぎても現役バリバリというヤツです。70歳を過ぎた人が国家の最重要なお立場におられるのはやはりいかがなものかと感じます。あの島耕作すら代表権がない相談役に退いたのに。

 

 

60歳を過ぎた人が、20歳を過ぎた社会新人と接するとなると40年もの差があります。40年って・・・幾つものムーブメントが勃興するでしょうか。同じルールでゲームをしようとしたら当然無理ゲーな訳です。

 

 

そんな中で、60歳過ぎた方々は、指南的発言をします、しちゃいます。それはアイデンティティの維持でもあるのです。しかも基本善意で。例えそれがどんなに時代錯誤でも。

 

 

そうなっては、時代錯誤はどのような方々でも受け取ったら老害に感じるのも無理ありません。当然ですね。

 

 

自分も、今回その上述の身近な案件を耳にした時に、明らかに老害案件だと認識しましたけども、その御仁の偉大さから、きっと御本人は指南的発言のつもりだったのだろうというのは容易に想像できました。けども多くの方々が老害だと認識したそうでした自分も含め。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なので今改め直したのは

 

 

老害的発言も一つの考えだと。悪意があるものは切り捨てます。

 

 

ブレインストーミングですね。ちょっと時間が掛かるかもしれませんけども温故知新のフィルターで捉えれば発見があるかもしれない。有益になるには、時代が違い過ぎるかもしれませんけども、衣替えしたら時代にフィットする面もあるかもしれません。

 

 

少なくとも今度日本は数十年高齢化社会です。高齢者の方々と接する機会はどんどん増えてきます。そしてそのうち自分も・・・。

 

 

その為に対策として自らを律せねばなりません。つまり日々精進、日々御勉強です。