花神 下16 | WriteBeardのブログ

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花神 下16

会津攻めの時、死戦を覚悟した会津人の防戦ぶりが激烈て城は容易に落ちなかった
会津白虎隊である

攻撃側の総帥は土佐の板垣退助で総帥者の人格としてはずば抜けていた
補佐は薩摩の伊地知正治であった
西郷でさえ伊地知を先生と座を譲り西郷の腹づもりでは伊地知を最高司令官にするつもりであった
伊地知もそのつもりでいたが蔵六何と無く出てきた

会津攻撃が困難を極めている時、伊地知は大総督府に急使を送って、旧幕軍の倉庫にフランス式の攻城砲が一門あるはず、それを急ぎ送れと要請した

蔵六はにべもなく断った
彼は木筆で攻城砲の重さを書き運ぶ人足の人数を割り出し

でありますから、一日に五里でしか運べない
私が考えている落城の時期には間に合わない

ですから無駄でござる

伊地知は面目まるつぶれになった
彼は会津城外で蔵六の計算書を握り潰して懐にねじ込んだその前日に蔵六が予言したように城は落ちてしまった

大村に対しては伊地知先生もよほどご不満である、海江田は京都の弾正団の長官の頃、浪人衆に洩らしていた

自分の郷党の尊敬すべき先輩が大村を憎んでおられる
蔵六を排撃する理由は十分であった

山田顕義は蔵六の兵学の門人である
十五歳で松下村塾に入門し松蔭に愛された

百年は一瞬のみ、君子粗餐するなかれ
少年だからと言って時間が多いわけではない、無駄に飯を食うな

山田は幕末の長州が経験したあらゆる戦いを体験し高杉晋作の藩内クーデターには小部隊の長として戦い軍人としての資質は山県有朋より抜きん出ていた

蔵六は個人教授のように洋式戦法を教えた
山田顕義が奥州戦争のあと海軍参謀として箱館の五稜郭に籠る榎本武揚軍を鎮定し明治二年六月軍艦で千代田城下に凱旋してきた

足下を慰労する、蔵六は山田を夕食に招いた
蔵六は裏霞ヶ関の旧幕臣のあき屋敷を借りて自炊同然の暮らしをしていた
山田が入ってゆくと門の内には雑草が草いきれするほどはびこる玄関や走らは埃まみれで山田は見上げながら、
なんとわびしい、と気が鬱する思いであった

この箱館戦争終了の頃、大村益次郎といえば軍神的存在で太政官の大官でその盛名は天下に聞こえている
ところが起居は村田蔵六のままで破れ書生と変わりない

蔵六は座敷で待っていた
やがて下男が食事を運んできた
女っ気でもあればいいのに

山田が蔵六を生涯不愉快に思ったのは、招待すると言っていながらこの凱旋幹部に出した料理は豆腐二丁きりであることだった
山田は戦陣の間ろくなものを食っていなかったので江戸に帰ったら美食することを楽しみにしていた
それだけに腹が立ち蔵六という万年書生のばかばかしさに腹が立ち酒だけを飲み
豆腐にはついに箸をつけなかった

蔵六は山田が豆腐に箸をつけないのを黙殺していたが、ふと

豆腐を愚劣する者はついには国家を滅ぼす、と恐ろしい顔で言った

山田顕義は天才肌の男ながら器局が極端に小さく人に好かれなかった
彼は後に伯爵になった
明治四年陸軍少将になり明治十年の西南戦争では別働第二旅団を率いて出征し翌年陸軍中将にのぼった

幕末以来、内戦は西南戦争をもって終わった、今後治世がくる、太平の世にあって兵馬の権を握り軍事にあくせくするのは山県や大山の徒であって山田顕義のなすべきことではない
有名な捨て台詞を吐いて職を辞した

山田は奥羽論をぶった
奥羽は一旦鎮定したが決して大人しくしていまい

が、蔵六は一笑に付した
奥羽は十年や二十年で頭をもたげることはあるまい、恐るべきは西である

西とは薩摩をさす
いずれ薩摩が氾濫を起こす
戊辰戦争の硝煙のなかで予言したのは蔵六の他にいない

中国で花咲爺を花神という
蔵六と花神の仕事を背負った

蔵六がなすべきことは幕末に貯蔵された革命エネルギーを軍事的手段で全国に普及する仕事でありもし維新というものが正義であるとすれば津々浦々の枯れ木にその花を咲かせて回る役目であった

花神の力を持ってして咲かない山がある
それが薩摩である

彼らは中世の人だ
いずれ九州の方から足利尊氏のごときものが起こってくる

尊氏とは西郷隆盛である
彼はこの予言的危機に向かって準備すべく戊辰戦争の最中から手をうち始めていた、具体的には西郷を仮想敵として戦備を整えることだった


薩摩藩という独立性を持った巨大なエネルギーがもう一度日本を揺さぶるだろうという蔵六の予言はかれの得意な窮理学から出ていた


エネルギーは消滅するまで存在する
このエネルギーを倒幕に向けたのは西郷であったが、そのエネルギーはやまず次の方向を求めた

征韓論に向けようとしたが空発しエネルギーに身を任せざるを得なくなり西南戦争で暴発しエネルギーもろとも消えた
蔵六の予言通りであった

しかし西郷の死よりはるか前に死んで当時はいない
しかしながら蔵六は西郷と相打ちであった

蔵六の死は忙しい
明治二年五月に五稜郭の榎本軍が降伏して戊辰戦争が終了し蔵六の役割は終わった

彼は新政府の軍務官副知事或いは兵部大輔として日本の兵制を整え、更に密かに予見する明治十年の西南戦争に対して手を打ってしまった

彼は軍事上の重要施設を東京に置かず大坂に置いた
大阪湾に臨む町で兵器や物資を瀬戸内海経由で九州に直送できる
軍事施設は陸海軍練兵所、兵学寮、兵器工場、火薬庫であった

更に西郷が反乱した時西郷に匹敵する頭目が新政府にいないことを憂え公家西園寺公望を担いだ

にわかに江戸が東京と改称された
明治元年七月、今より江戸を称して東京とせん
トウケイと発音したがいつの間にかトウキョウとなった

この年の九月天皇は京都を発たれ東京に入られた

乗り遅れの志士が京に登り不穏の形勢にある
往年奔走の志士の多くは非業に斃れた
勤王主義を挙げし時の友人、ことごとく骨となり
模倣家の集団が過去の劇的な時代を幻想し同じ扮装、言動をしつつ京に馳せ登ってきて、肩を怒らせ肘を張りあちこちに集団を作って不穏の空気をかもしている

蔵六との軋轢で江戸が去った海江田信義は京都で官職にある

海江田は彼らの親分になるかたちをとった

高千五百石
軍功により永世下賜候事
沙汰書を蔵六が拝領したのは明治二年六月二日である
戊辰戦争の論功行賞が行われた
土佐板垣退助、千石
長州山県有朋、六百石
薩摩小松帯刀、千石
土佐後藤象二郎、千石
長州木戸孝允、千八百石
薩摩大久保利通、千八百石
薩摩西郷隆盛、二千石

あいつに何の功があったのか
激しく嫉妬する者があった

彼は作戦を立て命令を下しただけで劇的な行動は一度もしていない

京都の猟官運動家たちが、
大村益次郎とは何者ぞ、新政府の不公平政治の証拠とした

嫉妬で黒煙の立つような思いでいたのが京都に追いやられた海江田信義であった

有村俊斎という名で西郷、大久保と共に志士歴の長いこの男が、同輩や後輩が綺羅を飾っているのに、地方裁判官にすぎない

その原因は蔵六との衝突にあり、殺しかねない言動のため、隔離する意味で京都にやった
海江田信義三十七歳
後世、元老院議官、子爵、貴族院議員、枢密顧問官、正二位に叙せらる

大村を殺せ、とは言わなかった
海江田官邸に集まる浪士は西洋文明を入れる徒輩は斬るというもので福沢諭吉も刺客の目標になった

大村は蘭学者でな、日本を洋夷にしようとしている、例えば靴、あの男は兵隊に靴を履かせようとしている
海江田は危機感を煽った

元来浮浪の壮士に思慮もない
飢えた獣のように都下をうろついている
変革期が終わって田舎から這い出てきた者は一様にそうであった

海江田はこういう連中を食客にし頭目然として中央政府に勢威を張った

河合らが、たれかれの差別はいらない、海江田も殺してしまえ、手塚某が密告すると、海江田は河合らを捕らえ首をはねてしまった

その後浪士が動揺して海江田を恨んだため、溜まりの剣術道場や私塾を歴訪し心を取り河合の位置に司法権を持つ海江田がつくことになった

警視総監がギャングのボスになった

そういう時期に上方へゆくと蔵六は言い出した
目的は宇治の火薬庫、大阪の兵学寮、兵器工廠予定地を実地検分するためであった

木戸は蔵六の西下を憂慮した
蔵六の住まいまでやってきて
他の者にゆかせるわけにはいかないか、と止めた

こればかりはやむを得ません
蔵六は士族の特権を廃止して百姓町民の兵制を考えている
士族の間で不穏な空気がある
ゆくと殺されると言ったが、蔵六は翻意しなかった

蔵六は七月二十七日東京を発った
虫がしらせたのか蔵六は横浜のイネに手紙を書いた
京へゆく

この手紙をイネが受け取ると顔を赭くし、その場から東京に発った
蔵六の仮寓所に着くと、蔵六が旅支度で出てきた
蔵六は百姓が田植えにかぶる大山笠をかぶっている

門内にひっ返すと書物を抱えて戻ってきた、これを差し上げます
どうして?
蔵六は僅かに説明し去ってしまった