花神 下6
蔵六が京へ上ったのは鳥羽伏見の戦いが終わって一月のちである
まだ寒い頃で北野天神の梅もほころびてはおりません
先生は京を歩いてみますとおっしゃって、北の端から南の伏見までずっとお歩きになって、地形や人情を調べておられるふうでした
伏見に行かれて幕府の奉行所をごらんになりました
ここで大激戦があり、新選組の白兵突撃と会津兵の勇猛さに、官軍は敗亡するかと覚悟したほど苦戦であったと言ったが
蔵六は、アア、ソウデスカと関心を示さない
官軍の兵営をどこに置くかということで頭がいっぱいだった
この伏見に置きましょう
蔵六が京に入った数日前に、新政府の太政官制度が決まり、軍坊事務局が設置された
征東の国防省の存在で、蔵六は判事加勢の辞令をもらった
判事は烏丸光徳ら公家の名が並んだが、実際の仕事はこの加勢がする
木戸孝允、かつての桂小五郎の方針で長州は従にという姿勢をとった
あくまで薩摩を兄貴分として立てる
薩摩は親切だった
征東軍の指揮官は西郷で、別働隊である東山道の指揮官は板垣退助があたった
蔵六は東本願寺の向かいの門徒宿を定宿にした
徳川慶喜を討つ、という勅命が出たのは二月三日であった
動こうにも兵隊がおらぬ
薩長の藩兵の他に土佐がいるが、軍費からほうだ、ワラジにいたるまで金がない
困ったことだが、金はなんとかする、ともかく出発せよ、山内容堂が言った
いずれにせよ、日本は一変し、京の天子が日本国皇帝になった、ということを天下の民衆に知らせねばならない
それには天皇自ら巡幸すればよいが、江戸は慶喜勢力がそのままで危険である
その点、大坂は安全だった
京と共に新政府直属になった
新政府は町人から莫大な借金をしたため、新政府の威光を見せておかねばならない
このため大坂行幸が決まった
大坂行幸は三月二十一日京を発ち二十三日大坂着、天皇は葱華輦に乗り、地下官人が錦旗をささげ、山伏が道を清めるためにホラ貝を吹き、百官が衣冠を正し前後に従う、ただ護衛部隊は筒袖にダンブクロであった
その護衛部隊のお膳立てを蔵六がやった
護衛部隊が天皇に礼をするとき、西洋風に、捧銃ささげつつ、をさせるつもりだったが、公家たちは、立ったまま礼をしてはならぬ
結局、兵士達は銃を地面に横たえ土下座して拝礼した
この時期、官軍の主力は東海道を東下して江戸に迫っている
一方、別働隊は東山道を板垣退助に率いられ三月十三日、武蔵府中から板橋辺りに充満し江戸攻撃の気勢を示した
主力は西郷が大参謀で、十一日池上に入った
この間、西郷と幕府代表の勝安房守海舟との間に折衝があり、非戦のうちに開城する方向に進みつつある
この頃、江戸に回覧新聞が発行された
さる十五日より三街道の先鋒、追い追い江戸へ入り込み、毎日市中を巡見す
然れど先々平穏にて市中の者一同、少しく安堵す
何卒暴発の異変これなきように致したき事なり
この度かくのごとく穏やかなるは、日光宮様の御取扱、殊に勝安房守の尽力にて、参謀西郷某の周施により平和に成りたる由なり
京は混沌としている
薩摩が横暴すぎる、非難轟々としていた
北条が去って足利が出てきたそうですね
西園寺公望が岩倉具視に言うと、
小僧にはわからん!その言葉、二度と言うな!と小声で囁いたという
岩倉は蔵六に対しても、西園寺を宜しく頼む、何度も言った
桂小五郎はこの時期、木戸準一郎と名乗った
蔵六よりはるか上位で新政府の最高官の一つ顧問、参与という職名を持っていた
顧問、参与は薩摩の小松帯刀、土佐の後藤象二郎、それに長州の木戸である
木戸は政治家としては気難し過ぎる男で、たえず鬱病が風貌や行動に濃いくまを作っていた
顧問を辞して国へ戻りたい
顧問はまず、今日にても御免仰せつけられ候よう、返す返すも懇願、と広沢に手紙を書いている
丸山の料亭今善に蔵六を呼び、
あとは先生に頼みます、と言った
私にはよくわからない、蔵六はそっぽを向いた
木戸は猿回しで、自分は猿である
薩摩の専断に腹を立てているらしいが、肉声は逆なのである
西郷が江戸を平和裏に開いてしまった、その鮮やかな専決行動が新政府の人々の気分を害した
これはわが長州の恥である
木戸は薩長連合の精神を説いてきた
であるのに今世間の非難を浴びているのは薩摩だけであり、長州はひとりいい子になっている
これは恥だ
薩摩のみがでしゃばり、長州は何もしてない、何かするにも西郷、大久保に押されて千両役者の役割を与えられない
徳川慶喜を殺すか生かすか
長州は慶喜を殺したがっている
長州は累年幕府にいじめられ無数の犠牲者を出した
憎悪は深刻で憎悪の的を絞れば、慶喜しかない
浪士たちは、首魁の首を刎ねずんば、天下一新の実が上がらないと横議していた
事実は逆であった
官軍が東へ出発した頃から、木戸は慶喜助命を主張し運動していた
その運動は地味で、ひそひそ声で人に説き、頑固者は料亭で慶喜の処分を寛大にすべきと示唆した
が、江戸開城と慶喜助命は西郷ひとり舞台になってしまった
木戸が助命工作し始めた頃、薩摩は、慶喜誅殺であった
薩摩は頑固で困る、木戸はこぼしていた
三月十日、京丸山の料亭に大名を集め宴会をやった
長州、薩摩、阿波、肥前、肥後などの藩主である
あんなおもしろかったことはない
阿波蜂須賀公は生涯語った
大名の暮らしは窮屈で料亭へ行ったり芸者を上げたりすることはなかった
木戸は祇園で大いに顔が効いた
選りすぐりの芸者を集め酒間を取り持たせた、その間に慶喜処分寛大論を囁いて回った
肥前佐賀の鍋島閑叟などは、京に沢山いるが、ただ一人長州の木戸のみは経国の材であると語っている
江戸開城、慶喜助命、という事件は木戸の功が西郷の盛名に覆われてしまった
政治は感情であるという
薩人はいつもああだ
嫌な奴だ
木戸が京の丸山で宴を開いた四日後
西郷は江戸の田町藩邸で勝海舟と会談し江戸城総攻撃を中止し、その後江戸をたち翌日には駿府に入り大総督にその旨を報告し京へ向かい入洛している
田町藩邸はいま日本の家電メーカーの本社が立っている
二十日、新政府にて稟議にかけた
三条実美、岩倉具視、大久保一蔵、広沢兵助、木戸準一郎、西郷吉之助、最高幹部であった
通説で、西郷の助命論に木戸、広沢、岩倉が反対し、西郷が立腹し席を立ったとあるが
西郷が帰京するまでに、大久保も助命に傾き、木戸も助命論であり、広沢は木戸に同調していたから反対するはずがない
西郷と勝の江戸開城と慶喜助命という離れ業は既に京に於いて方針が固まっていたため日常的な平穏さで決まった
木戸の憂鬱症はこの会議から強くなった
薩長は対立の兆しを見せ始める
双方いずれ闘争し共に倒れるだろう、その機に乗じて徳川を回復する、旧佐幕派の公家や大名は期待した
肥前佐賀の鍋島閑叟は事毎に木戸に好意を示したのは薩摩嫌いによる
土佐の山内容堂も幕府を批判したが、できれば薩長共に倒れればよいと思った
薩摩の島津久光でさえ、倒幕は西郷と大久保が勝手にやったという不満があり、以前から西郷嫌いで西郷が江戸始末で巨大な存在になりつつあるのを見て、
あの男は結局安禄山になると見ていた
安禄山は唐の異民族の武将で辺境の司令官だったが軍隊を私兵化した
突厥、トルコ系でソグド人の血も混じっていた、ソグド人はイラン系で色白く目青く体が大きく印欧系の特徴が濃い
薩摩藩士は藩主久光より西郷になつき、西郷のためなら命も捨てる気分でいる
安禄山はついに大反乱を起こす
