花神 中10
百姓が武士に勝った
蔵六は政事堂の燈火の下でつぶやいた
馬鹿なのは幕軍の総帥である
次はそうは参りませぬ
次は紀州藩、美濃大垣藩、それに幕府の洋式歩兵である
どう違う、山田老人は襟巻を巻いている
強いでしょう
紀州藩は兵器も悪くない
美濃大垣藩は蛤御門で長州を三方から包囲し激戦一時間で潰走させた
幕府歩兵は士官は武士だが兵は火消し職人でフランス顧問が訓練した
なまなかなやり方では勝てる相手ではない
幕軍きっての精強五千、戦闘を開始したのは六月十九日早暁である
長州の前線は東は海で西は山で山路だった、この地形を蔵六が指定した
崖や山林に布陣して幕軍を待った
長州は七百に過ぎない、が避難民を山に伏せて、幕軍が来ればワアワアと叫ばせた
幕軍五千が来た
凄まじく攻撃してきた
午前は五分五分だったが、午後追い出され指揮系統が乱れた
三人の司令官は岩陰に隠れ震え続けた
いずれも上士で庶民兵が激怒し
司令!でなされ!
先生、困ったことになった
山田老人が言った
なんでしょう、とも言わない
北方の石州の指揮官がいないのである
この男では無理かな、老人は思った
総指揮官として蔵六は当たったが、北方の実戦指揮官がいないのである
芸州口は毛利と河瀬が指揮を執ってる
小倉口は高杉と山県が対戦している
問題は石州口である
ここが最も手強い
益田には、福山藩、紀州藩、浜田藩が動き、後方に雲州松江は、因州鳥取藩がいる
蔵六は既に態勢を整えいた
老人が心配することはない
が、石州口には弱兵が多い
指揮官として清末藩の毛利讃岐守が選ばれたが、自分には任が重すぎる、村田がよいと言い出した
蔵六は断るだろう、老人は思った
長州は蔵六の頭脳を百石で買ったが、実戦指揮官までは期待してない
根が百姓だから
やりましょう
まずい、老人は腸の辺りが痛み始めた
不謹慎ではないか、清末様の代理などとは
次いで蔵六の、やりましょう
封建体制という武士の積み上げた積木を蹴り倒したのである
大丈夫か?
百戦百勝したいと思います
もっともだ
それゆえ、前線の長官たちに、私のなすことに一切不審を抱くべからず、と申しておいてください
いかにも将の要訣だ
桂からも高杉からも言わせておこう
戦争に行くには身支度がいる
わらじ五足、手ぬぐい三本、うちわ一つ
お琴まで飛脚を走らせた
往復二十キロである
まだ夜が明けぬころ、枕元が明るくなった、行燈のそばにお琴が動き回っている
困ったやつがきよったのう
ああ、おいでたのかぇ
ハイハイと頷き、下着類を風呂敷に包み張り切っている
わざわざ来ずとも飛脚のソウスケに持って来させれば良かったのだが
それじゃ武家のシキタリにそむきますいねぇのんた
お琴は三方、正月に餅を乗せる台を用意し、勝栗、スルメといった縁起物を乗せた
お琴、それは
要るまいよ
しかし村田家は歴とした平氏ですから
たれがそねぇ言うた
亡くなったおかぁ様が、検非違使判官平康頼より出づ、と
それはウソです
お琴、わしは今から武家を滅ぼしに行く、だから勝栗であれスルメであれ、武家のシキタリなど犬猫に食わせてしまいなさい
おん大将はどこにごさらっしゃる
蔵六は増援隊を率いて出発した
蔵六は大将であるため馬に乗らねばならない、が蔵六は馬に乗れない
部隊の中ほどに空馬が引かれてゆく
部隊の後ろの方で列から離れててくてく歩いている
一同、柏餅のような韮山笠に筒袖にズボン、わらじという恰好で肩には長州自慢の施条銃を担ぎ、士官は羽織を着ている
蔵六は百姓笠にユカタを着て半袴をはき、腰には渋団扇を差し、庄屋の手代が隣村に涼みに行くような恰好で、これでは長州軍の大将には見えないであろう
門人三人を伝令として従え長い竹梯子を担がせた
要所要所で民家に梯子をかけ、屋根に登って敵状を眺めるつもりだった
どうもあれが大村益次郎という人か
隊士達はこの風体を見てひどく落胆した
出身も知っているし、果たしてこの人物にどれだけの器量があるのか
石州、石見国、島根県西半分、北は日本海、西は長州
石見へは進襲する、蔵六の方針で計画通り進んでいる
芸州口では防御し石見へは大いに踏み込む
遠く石見浜田まで進出する、浜田城まで奪ってしまう
浜田城を取って長州軍の東端とし、大坂の幕軍本拠に対抗する
山田老人は危うんだが、
天下に勝名乗りを挙げるには高名な城を一つ奪わねばなりませぬ
浜田城を奪えば国論は大いに長州へ傾きましょう
蔵六は生雲に入った、山口から北東三十キロである
本営は庄屋屋敷、奥座敷に入ると、床の間に書がある
下手な字だ
蛤御門で死んだ久坂玄瑞の書であった
よみくだすにつれ、久坂の詩の上手さに感嘆する
満隄の緑草 露涼を吹く
月影涓々 塘に流れ入る
荒駅蕭森として夜まさに半ばならんとし
林を隔てて山犬一声長し
二十四で死んだ久坂の生涯は林を隔ててただ一声長々と吠え続けた一生であるかもしれない
久坂の死からわずか二年、今蔵六は長州軍を率いて、久坂を殺した幕軍と対決しようとしている
膳が運ばれてきた
軍議をします、あらかじめ指揮官たちを呼んでいた
十二人の膳が運ばれてきた
最も身分の高いのが、杉孫七郎であった
杉は痩せがちで目鋭く鼻筋が通り咳一つ洩らしても人々が何事か意味を付ける程に思慮深い人物である
序列から言えば上座に座る
杉は座ろうとした
後から入ってきた佐々木男也が、
杉さん、そこは村田先生に譲られよ、と言った
佐々木は三田尻の招賢閣の接待係で人間関係の力学の機微を察する感覚がある
ホイ、そうじゃった
杉は上座を空けた
蔵六は当然のように座った
清末様の采を預かる身ですから、上座に座らせていただきます、とは言わない
盃を上げる前に、いきなり言った
明日から行動を起こします
まずは、益田を攻める
座敷の中央に地図を広げた
長い竹の鞭を取り、現在地を示し、益田の位置をたたき、諸部隊が取るべき行動を指示した
