花神 上五
幕府に対する野党は、水戸藩で、次いで薩摩藩であった
が、水戸藩は思想的対立から内紛を起こし他を殺しあう泥沼に陥ったため、時勢を動かす力を失った
その後を相続したのが蔵六の長州である
水戸の御隠居と言えば徳川斉昭で尊王攘夷先唱者で、謀臣に天下の思想家藤田東湖が付いていた
東湖は安政大地震で圧死し、斉昭も安政の大獄で謹慎させられ程なく死んだ
この後内紛が起こり藩としてのエネルギーを失う
その後、平凡な長州が、にわかに時勢の電磁力を帯びたように登場する
いよいよ幕府は蔵六を幕臣に加えるかもしれない
蔵六を取られては困る、長州江戸藩邸は高まり、桂は蔵六に説いた
幕府教授を辞めてくれ
虫のいい話である
蔵六を発見したのは宇和島藩であり、幕府である
わが長州のためです
蔵六は、わが長州という言葉に揺さぶられた
どうぞよろしきように
蔵六は幕府から身を引いた
長州藩は、蔵六をして科学教育制度を作らしめた
博習堂と名づけられた
語学コースもあったが、主に西洋兵学であった
物理、化学、数学、天文学、小部隊戦術、大軍戦術、野戦築城術、爆薬製造術、射撃術から弾道学まで教えた
ここで、洪庵の運命に変動が起きる
江戸へ出て奥医師になれ
という幕命が下った
洪庵にはその気はなく、再三断った
奥医師とは将軍家の侍医で、医道では最高の出世で雲の上の人と言っていい
法眼という位がつき、旗本や大名に匹敵する
頭をまるめ、外出にはお供が十人つく
位を貰うにはお礼のお金がいる
幕府に金を出し、幕府は朝廷に持って行く
最低百両、今にして二千万円かかる
洪庵はもう五十二になった
洪庵が江戸へ下ったのは文久二年八月五日である
蔵六には会えない、せめて福沢と会えるだろうか
福沢は渡米している
諭吉は向こうでウェブスターの辞書を買ったそうな
洪庵の門人で江戸で活躍している者は五十をくだらない
門人達は品川で洪庵を迎えた
福沢はまだ帰っていないのか
福沢は幕府の遣欧使節に随行して江戸にいない
福沢が帰国したのは年の暮れであった
帰国すると洪庵を訪ねた
今後、日本の学問は英学によって旋回するだろう、洪庵は相好を崩し喜んだ
洪庵は江戸に着くと奥医師の辞令を貰った
下谷御徒町に屋敷を貰った
蔵六が江戸に戻ったのは年の暮れである
殿様はお昼寝中です
取次ぎの貧相な男が言った
この種の傭い侍はサンピンと言った
年に三両の給金である
やがて洪庵が起きてきた
長州ではまるで京都の宮廷を占領したような勢いだと言うが、どうかね
洪庵の死は突然やってきた
洪庵は朝から、歯が痛むともらしていた
昼過ぎに出よう
洪庵は結核であった
昼寝から起き
手紙を読んでいると俄かに咳き込み
大喀血が起こり、身体が波打つように咳き、机に突っ伏せるうちに口から鼻から多量の血が吹き出し、このため窒息し、ついに死が訪れた、五十三である
八重は仰天したが、取り乱さなかった
すぐに、ご門人衆に報せますように
私は実に肝をつぶした、福沢は福翁自伝に述べている
下谷にいた緒方先生が病いでたいそう吐血したという急使いに私は実に肝をつぶした
その二、三にち前に先生に会って様子を知っているのに、急病とは何事であろう
福沢はそのころ芝の新銭座に住んでいた
芝から下谷御徒町駆けに駆けた
蔵六も麻布から駆けた
蔵六が着いたときには福沢諭吉がすでにいた
ああ、福沢は蔵六に会釈する
お亡くなりになったか
福沢はうなずいた
蔵六は洪庵の遺骸ににじり寄った
拝礼したが顔が上がらない
先生の恩に報いるところが薄かった、涙がせき上げてこえが悲鳴にように噴き上がる、どうにもならない
福沢は陽気に喋っている
なんだあの男
どこか情感の欠如した男だ
福沢は向日性の性格で湿った感情を湧かせることを嫌い、たまに出てきてもそれを抑えつける意力の強さがあり大豪傑であった
村田蔵六とは存外、芝居がかった男だ、師の遺骸から離れない
そのまま通夜になった、百人が狭い家に犇いた
しかしこの暑さはどうであろう、風がなく、人いきれと狭さで息苦しいほどである
適塾の夏を思い出す
ところで、村田君はなぜああいう藩に行ったのだろう
福沢は攘夷家を毛虫のように嫌った
馬鹿が馬鹿をおだてている
長州が朝廷に入り、世界の西も東もわからぬ公家をおだてて通商条約を破棄せよ、即時攘夷を断行せよと迫っている
この五月、長州は下関沿岸から外国艦隊を砲撃したのである
村田君も危ない藩に仕えたものだ
鉄砲玉に当たりゃしないか
夜半、福沢が暑さにたまりかね玄関の式台に腰を下ろしていると、蔵六も奥からむっつり出てきた
おや?
蔵六が隣に腰を下ろした
蔵六は気がつかない
私だよ
ウン
君はいつ長州から帰って来た
この間戻った
どうだぇ馬関の騒ぎは、攘夷ぐるいどもにかかっちゃ呆れかえるじゃないか
何が攘夷ぐるいだ
攘夷のどこが間違っている
これには福沢は天地がひっくり返るほど驚いた
福沢のような軽薄才子に言って聞かせてもわからん
蔵六は自分の理論を打ち立てた
攘夷という非合理行動で日本の士魂を世界に示しておく必要がある
中国はそれをしなかったため分けどりに遭った
日本の士魂を見せておかねば、日本は列強の植民地になってしまう
我々はオランダの恩恵を受けている、がそのオランダでさえ英米仏の尻馬に乗って横柄極まりない
それを打ち払うのは当然で、防長の士民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ、どこまでもやる
大変だ大変だ
福沢は蔵六からそろりと離れ、箕作秋坪らのところに行き
村田の剣幕はこれこれだ、実に驚いた
福沢の地声はでかい、蔵六まで聞こえた
何を言いやがる
村田は攘夷を唱える馬鹿じゃないはずだが、あの阿呆藩の阿呆がうつったのか、あの男の気が知れない
なんと大きな声だろう
ともかく一切あの男の相手になるな、しばらく別ものにしておくが良い
ごく土俗的な攘夷家が九割九分いて洋学者を外国の犬のようにみて、斬ろうとした
村田は別もの
蔵六が友人間の村八分になったのは、皮肉にも恩師洪庵の通夜からであった
その蔵六が幕府をたおして日本の近代化を一気にひらいたというのは、福沢にはどうもわからないことらしい
