四の十五 老年
晋作の生涯は二十八年でおわる
師の松蔭よりも一年短い
が、晋作は松蔭の死後、八年長く生きた
この八年の差が、二人の歴史の中に於ける役割を別々なものにした
八年長く間、時勢は激しく転々し、幕府の勢威は大いに衰えた
八年前、松蔭という無名に近い書生を萩から引きずり出し、江戸伝馬町の獄舎に投じ、虫でも潰すように刑殺するほどの力があったが、八年後、その書生の門人である高杉晋作のために小倉城が攻め落とされ、幕軍副総督小笠原壱岐守長行が城を脱出して海上に逃げるという事態になった
晋作は松蔭より八年長く生きることによってそのことを成し遂げた
が、晋作は倒れた
その病がただの風邪でないことを白石も察していた
七月二十ニ日、高杉不快、と白石の日記にある
下関の医師が診察して、
これは労咳、肺結核ですな、と当時死の宣告と言っていい診断を下した
翌日、奇兵隊から大きな鯉が運ばれてきた、この病気には鯉の生き血を飲むしかないとされている
おうのがそれを猪口にとり、晋作に飲ませた、晋作はこの世で最も飲みずらい液体をおとなしく飲んだ
朝夕飲んだ
紅屋木助夫婦が、精を養う鰻と熱を去らしめる氷砂糖を持って見舞いに来た
晋作は甘いものが嫌いだったが、鯉の生き血よりはましだった
その様子が可笑しいと、おうの声を立てて笑った
晋作の発病は、小倉落城以前である
発病後も指揮した
この間、風邪を引いた、今で言う肺炎の症状が小倉落城後に出た
ほどなく高熱は去ったが、衰弱は続いた
九月四日朝、晋作はしきりに咳をし、やがて痰を紙に吐くと、そこに血が混じっていた
風邪どはなく、肺病である
自ら重病を自覚した
この病気は人に感染するだろうと、白石家を去り、山県に家を物色して貰った
肺病の姿に相成り、九月二十九日、井上聞多に手紙を送った
この頃、京の政界は相次ぐ幕軍の敗戦と将軍家茂の病死、相続問題、幕長戦争の止戦論議でごった返していた
聞多ら長州政客は京都対策で忙しく、晋作を見舞うこともできない
晋作は病床で自分の手足を眺め、これが生きた手足かと自分でも驚いた
桂小五郎にも書き送っている
再発と申すわけにはこれなく候えども、少々喀血これあり候ゆえ、驚き候までに御座候
この時期、転居をした
寒さに向かう折から、海よりは風が強い、山ふところがいい
場所は下関郊外である
桜山という丘のふもとで、竹やぶそばの独立家屋であった
晋作はこれを喜び、
東行庵、と名付けた
桜山の上に招魂寺がある
藩が造った物故志士の社で、新居の東行庵から鳥居が見える
鳥居のそばに楓が五、六本植わっており、みごとに紅葉していた
招魂社に入るべき俺が、墓守りになってしまった、せめて落葉でも掃きたい
とつぶやき、おうのに筆紙を持って来させて、詩を作った
落花、日斜めにして、恨み窮まりなし
自ら愧ず、残骸、晩風に泣くを
怪しむを休めよ、家を華表の下に移せしを
暮朝、廟前の紅を払わんと欲す
藩では晋作の病状がおもわしくないことに驚き、異例に処置を取った
名医の長野昌英と李家文厚を主治医にし、藩主の侍医竹田友伯を太宰府から呼び返した
書生ながら英雄の待遇を受け、今晋作に死なれてはたまらぬということだろう
日が経ち、歳末になった
己惚れて、世は済みにけり、年の暮
病状は依然おもわしくない
晋作はなんとか再起したかった
これほど手綱をつけられることを嫌った男が、医師の言うことだけは人がわりしたように聞いた
しかし、食欲がなく芋粥食べ一椀がやっと喉を越し、二杯目を呆然と眺めていることが多かった
少し寒気が去れば、三田尻へでも転地したい
居を移して気分が変われば病にも良いのではないか
訪客は断っている
絵を描いたり俳句を作ったりしたが、我ながらまずい
どうも句がまずい、と苦笑し、その感興だけで、みごとな詩を作ったりした
書ヲ作ッテ、書サラニ拙ク、句ヲ探ッテ句成ルコト遅シ、恨ムラクハ少年ノ日、兵ヲ学ンデ詩ヲ学バザリシヲ
と詠んだ
この桜山の家屋は刀を売って買ったもので、この詩は、
刀ヲ売ッテ病にヲ買イテ住ム、
という言葉から始まっている
彼にとって刀を売って療養所を買ったということは、ひとつには幕長戦争が長州の勝利のうちに進んで、和睦を幕府から申し入れしている段階であったから、もはや懸念するところがなかったからでもあった
自分の活動期が終了し、残された晩年に日々を、閑かに臥し、ひとり怡怡として、詩文を楽しみつつ過ごそうとしていた
どの人間の生にも春夏秋冬がある、と松蔭が言ったことがある
幼少で死ぬものも、長寿を得て死ぬものも春夏秋冬のあり、人生に長短にかかわりがない
ゆえに短命に終わることに少しの悔いもない、松蔭が自らに言い聞かせた言葉だが、晋作の人生の晩秋は短かった
はじめはこの東行庵を喜んでいたが、
やはり山より、市中がいい、と言い出した
天性賑や好きなこの男は雑踏が何より好きであり、下関が大好きであった
結局、下関に移った
下関の新地町に酒造家に家がある、その離れが進ん空いているというので、病床を移した
この頃の晋作の衰えようの凄まじさは、
膚は秋草のすえの如く干からび、肉は脱して骨痩むこと頻りなり、再起は難しかろうと思われた
詩の中で、胸間には別の春あり、と心躍らせるようにして詠み、幕軍がまだ浪華城、大坂城にとどまっている状況を謳い
敵はなお華城にあり、慷慨す病床の上、薬炉にあって怒声を発す
と自分の境涯をののしっているが、これもまた詩文家の遊びである
三月半ば、晋作の病が篤い、ことを知った藩主は、この長州を亡国の危機から救った躍らせるを書生の身分のままで死なせたくないと、重大な処置を取った
まだ部屋住み身分の晋作にあらたに谷家を立てさせた
谷潜蔵というのは、晋作が用いた変名のひとつで、これに百石を与え、死ぬ時には百石取りの当主として死なしめるという処置であった
百石なら、まだ飲めるな、晋作は真顔で言った
この男は、これだけの重態のなかで、
今から、了艮へ行く
と馴染みの酒楼の名を口走って、病床から大刀を杖に立ち上がったのである
おうのが止めても聞かず
おうの、駕籠を呼べ、と命じた
おうのが馬鹿正直にその命令に従った
芸妓は五人、タイコモチひとり呼んでおけ、と言いつつ駕籠に乗った
最後のどんちゃん騒ぎをやってみたかった
が、半丁も走らぬうちに、駕籠の中で便をもらし、もはや遊べる体力がないことを知り、駕籠を戻し、病床についた
その日から、容体は悪化した
その報は四方に伝わり、奇兵隊にも伝わった
隊内は大いに動揺し、開闢総督の命の身代わりになりたいと、付近の社寺に走り、祈願するものが二百人にのぼった
容体が悪くなってから、山県狂助と田中顕助が付きっ切りで看病した
もはや萩へ知らずべきときではないか
山県が判断し、萩の高杉家へ急使を出した
小忠太がまず来た、翌日お道とお雅も来た、お雅はまだ幼い東一を連れていた
お雅どの、苦労を掛けたことを詫びた
お道は気丈に振る舞っていたが、小忠太はおろおろしていた
この数日が唯一の家庭的な日々であった
四月十四日未明、主治医の石井健伯が庭先に田中顕助を呼び、
きょうは大切になされぃ、と言って辞去した
今日、おそらく生命が尽きるという意味であろう
みな、燈火を寄せ、晋作の枕頭に集まった
晋作はずっと昏睡状態にあったが、まだ夜が明けぬころ、不意に瞼をあげてあたりを見た
意識が濁ってないことが、たれの目にもわかった
晋作は筆を要求した
枕頭にいた野村望東尼が紙を晋作の顔のそばに持ってゆき、筆を持たせた
晋作は辞世の歌を書くつもりであった
ちょっと考え、やがてミミズが這うような力のない文字で、書き始めた
おもしろき こともなき世を おもしろく
とまで書いたが、力が尽き、筆を落としてしまった
望東尼は、この尻切れトンボの辞世に、下の句をつけてやらねばならないと
すみなすものは 心なりけり
と書き、晋作の顔の上にかざした
望東尼の下の句は変に道歌めいていて、晋作の好みらしくなかった
しかし晋作はいま一度目を開いて
面白いのぅ
と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた
ただその間、一度唇が動き、短くつぶやいた声を聴いた者がある
吉田へ
ということばであった
死後、この方角を示す言葉が、自分の眠るべき場所を示した彼の意志であると、尊重された
ただ、
吉田へ
というのは、どういう意味であろう
松蔭のそばで眠りたいということなのか、晋作がつくって長州の運命を旋回させた奇兵隊の本営がある吉田という地名をさしたのか
結局、地名説がとられた
吉田郷は下関より東北へ六里、葬列は十六日の日没後、下関を出発した
すべて神式によった
参葬者は三千人、それぞれ松明をかざし、星が動き、火が動き、長州におけるあらゆる儀式のなかで空前の盛儀であった
墓域たるべき清水山の山頂に棺が到着したのは、夜十時である
まわりに大松明が二本立てられ、墓穴の深さは六尺、白木綿のハッピ姿の者が掘った
ここに棺がしずめられたのは、夜十一時であった
この間、風が物凄く、山頂の松のこずえが鳴り続けた
これら葬儀いっさいの宰領を白石正一郎が執り行った
墓碑は後日、据えられた
墓石はごく小さく、碑の表に、単に
東行墓
とある、それのみである
明治後しばらく荒れていたが、明治四十四年五月、
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢えて正視するなし、これ我が東行高杉君に非ずや
俊輔、伊藤博文による
という高名な撰文を刻んだ碑がこの山に立てられた
このきわめて凝縮された老年を送った人物の生涯は、二十七年と八ヶ月でしかなかった
おうのは、黒髪を落とし出家して、生涯弔い続けた
年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ
海舟言行録
完
