三の三 馬関へ
この藩が轟々と幕末の情勢のなかで旋回したエネルギーの一つに、シャフトになっている藩主父子がまるで常人とは思えないお人好しであったことであろう
晋作を起用いたしましょう、君前会議で一同万策尽きて申し上げた
父子は大きく頷き、そうせい、そうせいと声をあげた
晋作は山口へ急いだ、面白くなってきた
山口に入ると、周布の屋敷で旅装を解き裃をつけ政事堂にのぼった
藩主父子に拝謁する
元徳は手招きし、晋作、近うよれ
晋作の頭髪は少し伸び裾を刈り込んで西洋人のような髪型になっている
晋作はひざを持って進んだ
馬関が手薄だ、そのほう、行ってくれるか
それは困ります
そこを断って、元徳は言う
すでに非常の事態でございます、非常のことを行なわねばなりませぬが、わたくしにお任せ願えましょうか
その時、運良く海峡の敗戦の詳報がもたらされた、このままでは藩が滅びる
かまわぬ
その後、晋作は馬に鞭を与えて騎走し下関に入った
奇兵を興す以外にない、奇は正に対する言葉である、正規部隊に対し奇、非正規部隊である、あらゆる階級から募る、足軽よし、陪臣よし、門番中間のたぐいよし、町人よし、百姓よし、志持つ者
徳川封建制という巨大な石垣の隙間に無階級戦士団という爆薬を差し込み、それを爆発させることによって藩秩序を揺るがせ、ついに天下をも崩してしまったのである
が、金がない
藩費を使えば藩に組み入れられる、奇兵隊は新興ブルジョアジーの軍隊であるべきだ
たれか富商に金を出させる、小倉屋、下関の貿易商を考えたいる
親しくはないが、いきなり当たれば
暴発
なるほど、晋作が話し終わるたびに目を細め温和なカオを頷かせる
これはどうしようもなく大きい
正一郎も、これほどの人間を見たことがあったろうか、貴方様についてまいりましょう
ここに、晋作は小さく膝を打った
奇兵隊と名付けたいが、ご異存ござろうか、正一郎に異存はない
されば奇兵隊、兵に正と奇あり、正は正規兵、奇は非正規兵
入江は結成の夜が明けると隊士を募集したちまち五、六重に隊士が集まった
旧勢力から反撥が起こった、百姓や町人に大小を差させるということにあるか!
奇兵隊のほうが威勢が良く、この腰抜けめが!と喧嘩を売った
先鋒隊はフランス戦以来不甲斐なかったが服装は大小こしらえも立派で家重代の具足を着け戦国毛利武者が再来したかのようだったが、鉄砲を持たない
武士は槍である、鉄砲は足軽と相場が決まっている
奇兵隊はカミクズヒロイ、黒木綿の筒袖に太めのモモヒキに韮山笠をかぶっている
海舟が後に、幕軍が負けたのは長州兵があのカミクズヒロイのような軽装でやってきたからだ、と言った
藩主父子は喜び、結成から二十日後にこの二十四歳の若者を政務役というたいそうな重職に就け、同時に百六十石の知行を与えた、大長州藩の要人になった
京は長州の京か、と言われたほどに長州藩の勢威は京を圧していた、尊王攘夷エネルギーの大問屋の観をなし宮廷の過激公卿に働きかけ天子、孝明帝を握った、なにごとにつけ、勅諚であるぞ、と切り札を振り回した
西郷でさえ、長州は幕府を倒して毛利将軍の樹立を企んでいる、と思った
こういう怨念が薩摩と会津を結託せしめ、薩会が密盟して宮廷に工作したところ、意外にも孝明帝は長州の暴走主義には極めて濃厚な不快感を持っていることがわかり、むしろ薩会の穏健さを喜んでおられるとわかった
薩会は大いに喜び、八月十八日俄に宮門を武装兵で固め、勅諚であると長州系公卿と長州藩士の入門を禁じ、さらには京都からも追い落とした
いわゆる禁門の変である
これに伴って、七卿落ち、がある
長州は薩会のクーデターに破れ、一夜にして朝敵藩になった
山口の政庁は大騒ぎになったが、妙策がない、世子おんみずから京に登られ陳情なされば宮門も融けるのではあるまいか
が、京は薩会が守りを固めている、山崎か伏見の関門で押し戻されるに違いない、よほど強力な一軍を率いて行かれるとよい
本来ならさむらいが強かるべきだが、無力を知っていた、奇兵隊を連れて行けば下関が手薄になる、藩庁が思いついたのは、鉄砲打ちの猟師どもであった
狙撃隊、五十、一様に侍装束を許した、隊長を来島又兵衛四十ハが選ばれた
勇士団が組織された、神主達の神祇隊、僧侶達の金剛隊、力士達の力士隊、百姓達の郷勇隊、町人達の市勇隊、総勢六百である、これらが、周防三田尻に駐屯した
が、藩庁の意見が変わった
世子上洛はかえって藩の立場を悪くする、来島のような豪傑が京に来ては陳情より戦さになる、京が戦場になれば長州が賊軍になる
来島は大いに憤慨し、脱藩して出発すると咆え立てた
藩庁は狼狽えた、たれかを説得にやろう
来島を説得出来る者はいない、ついに晋作にその大役を負わせた
晋作が三田尻に乗り込んだのは、元治元年正月二十四日である
小僧が来やがった、来島は座敷に座る晋作に聞えよがしに呟いた
晋作は世子の立場から上座に座った
なんぞ?おぬしゃもっと骨のある男かと思うちょったが、なんのことかい、俗吏に頼まれて止めに来たか!いつ骨が軟こうなった、百六十石の毒がどうやら寅次郎の魂を溶かしてしもうたらしい
三日間説得したが無駄であった
それなら、わしが暴発する!
と三田尻から上方へ船を奔らせた
幽魂
晋作は大阪に上陸し京へ上った
新選組が大きく成長していた
淀川のぼりの船で伏見寺田屋の河岸に着くと、揃いの羽織の武士が三人いた
こいつら何者か、相手もそう思った、ザンギリ頭でそれだけで人目をそばだたせる
卒璽ながら、晋作の藩と名前を聞いた
京都守護職会津中将ご支配の者である
毛利大膳大夫家来高杉晋作、と名乗った
相手は長州と知り一瞬怯んだが公藩の藩士には手出しできない
ご無礼仕った、相手は一礼したが、晋作は黙殺して京街道に向かい、河原町の長州藩邸に入った、がらんとしている
外交担当者、桂小五郎、久坂玄瑞もいない、晋作は火の気のない部屋で待った
夜更け、二人が戻る、なぜ、来た
この二人にとって晋作は戦慄そのものであった
脱藩してきた、両人は飛び上がるほど驚いた
国元はいつ暴発するかわからん、来島翁など進発しようとしている、自重を説くほど火に油を注ぐようなものだ
そ、それは困る、京をあげて反長州だ、来島らが兵を率いて上洛すれば幕府や薩会が長州征伐を始める、彼らは罠を用意している
全て薩の陰謀よ、晋作が見抜いた
この舞台の筋書きを書いたのは久光と側近であった
薩会の罠にかかるな
西郷でさえ、長州は薩にとって禍根になるから秋田辺りで五万石程度の小藩に追いやると大久保に書いた
会津など大したことはない、おそるべきは薩摩だ、桂は言った
晋作は京都情勢が十分わかった、桂は早く帰国して来島を抑えてくれと頼んだ、が晋作は煮え切らなかった
彼は京の酒亭で泥のように飲み帰国しなかった
帰っても仕方ない、来島の気持ちこそ、晋作の憧れの境地であった
晋作の気持ちを救ったのは土佐中岡慎太郎であった、高杉君、君の気持ちはわかるが、毎日酒を飲んでいても仕方ない、君は死所を探しているのではないか?
三郎を殺そうではないか、三郎とは薩摩の島津久光である、生きては帰れぬが、この情勢を破ることはできる
中岡は自分かやる、君もやれ、と言う
直ぐに帰国するように、藩主から手紙が来た、晋作は驚愕し泣きそうになった
藩主が藩士に手紙を書くことなどない
この度の無断上洛を藩命によるものだと
脱藩を許した
が、自分は生きて帰国せず、死んで幽魂になって藩公にお詫びする、と帰らなかった
あの時の晋作の人相は、とても人間のようではなかった、と語られた
大潰乱
土州の中岡慎太郎と薩摩の島津久光を討とうとし機会を待ったが、ついに機会がなかった
彼は帰藩した
脱藩の罪により入牢を申し付ける
山口の政庁前から囚人用駕籠に乗せられ萩へ送られた
晋作が檻かごで帰ってきた、高杉家では大騒ぎになった、若嫁のお雅はおろおろして台所ですり鉢を割り井戸端で薪につまずいて転んだ
晋作は松蔭の入っていた野山獄に投ぜられた、自分ほど知人、友人が多い人間もないと思っていたが、たれも獄舎に訪ねてこない
長州の政情は、藩をあげてヒステリー状態に達しようとしていた
桂小五郎も久坂玄瑞もこの発狂状態を抑えることに躍起になっている
高杉は我々の邪魔をしようとしている、獄へ送り込め、という策動が発狂者達の手で行われた
ある日突如周布が現れた、周布は政務役の筆頭で松蔭や晋作と同様狂の仲間だった、周布も八方駆け回って発狂派を抑えていたが、周布も因循派に与したとつけ狙われた
周布は萩城下に来ていた、友人宅で酒を飲み、朝迎え酒をし飲み続けた、俺を殺そうとする馬鹿がいるそうだが、何度も言った
朝から暑かった、友人宅を辞し馬でカツカツと野山獄に来ると、馬上刀を抜き、門番!門を開けよ!とわめいた
門番は仰天した、見れば高官であった、やむなく開門した
周布は騎馬のまま門内に入った
晋作々々、そこにいたか、その首、斬ってやる、斬ってやろうとここまで来たが、考えを変えた、その首他日入用があろうゆえ、今は持ち主に預けておく、牢に三年いろ、学問をしろ、少し人物を作って出てこい!周布は駆け去った
周布はこの時期、責任を感じ自殺を決意したが制止され、辞職しようにも藩主が許さない、万策尽き、罪を得てやれ、戦略的狂であった
周布が酔いの醒めた顔で政事堂に戻ると、逼塞を命じられた、周布の思う壺であった
同時に発狂派の思う壺であった、最後のブレーキが失脚したため、渦潮が大きく盛り上がり、長州の港々から軍船が次々に出港し帆を張って上方へ舳艣を向け怒涛に勢いで進撃した
長州軍の上洛である、甲冑で鎧い、その勢二千数百、隊長は来島又兵衛
京のまわりに布陣して、洛中の幕軍、薩摩、会津とにらみ合い、やがて月下の市街に乱入し、いわゆる蛤御門の変で戦い、壊滅した、来島又兵衛は戦死し、制止しようとした久坂玄瑞も乱軍の中で死んだ
晋作の獄中のことである
が、小忠太の運動により自宅監禁されていた
小忠太は、お家は潰れた、と言った
幾百の長州人が京で屍を晒し、残兵は敗走し、腹を切り捕縛され船は沈められた
灰燼はいじん
あの夜のことを思うと、今も夢の中の景のように思える、晩年述懐したのは一橋慶喜であった
長州軍が京を包囲したとき、宮廷は慶喜に、禁裏御守衛総督という総大将を委嘱した
伏見で銃声が起きた、まだ夜が明けてない、慶喜は跳ね起き公卿風の衣冠を着、馬に飛び乗り御所に向かった
長州の大旆は二本あった、一つは、尊王攘夷、いま一つは、討薩賊会奸と書かれていた
長州が京に乱入したのは七月十八日であったが、先月二十四日には郊外で武装屯集していた、この二十日間、文書で陳情した
後に中岡慎太郎が西郷に、なぜ兵をもって長州を撃ちなされたか、と詰問した
西郷は、長州は宮門を犯そうとした、我々はそれを防いだ、それだけだ、と言った
薩摩は幕府と手を組み長州に対抗したが、やがて長州と手を握り討幕に変化する、薩摩に背負い投げを食らわされたのは長州だけでなく、慶喜も同様であった
この二十日間、幕府側は十分防戦体制を布くことができた
伏見方面に大垣藩、彦根藩が先鋒となり会津、桑名が指揮権を握った、新選組もいた、会津藩は九条河原に、丸岡藩、小倉藩は遊軍、鯖江藩と丹波藩は豊後橋を、山崎方面を宮津藩、郡山藩が先鋒に、津藩が後衛に
河原町の長州藩邸は徳川藩、加賀藩が包囲した
蛤御門は会津藩と津藩、乾御門は薩摩藩、中立売御門は福岡藩が守った
長州藩は千数百に過ぎない
遥か嵯峨天龍寺を発し敵の守備を突破し御所の門まで到達したのは来島又兵衛以下八百だけであった、二百が蛤御門に達し敵と激突した
長州藩の突撃の凄まじさは、賊勢すこぶる猛烈、と会津藩の記録にある
一橋勢も乾御門へ退却し、薩兵の守り、ほとんど失わんとす、会津藩が記録している
蛤御門に突入した来島又兵衛は門扉をけやぶり急射撃し抜刀突撃した
会津兵につき入り悪鬼のようであった
嵯峨天龍寺に向かった薩摩藩は変報を聞いて引き返した
彼らは砲三門を引いていから入り、来島軍の背後に出た、一旦退却した会津、一橋が盛り返し、来島軍を挟み撃ちにした
薩軍の将は西郷吉之助、馬上の来島又兵衛を撃ち落とせば長州は潰乱すると、川路利良に狙撃を命じた
又兵衛は胸を射ぬかれて落馬し地を這ったが、槍の穂先を逆手に持って喉を突いて死んだ
久坂玄瑞が戦場に着いた時には来島は戦死した後だが、鷹司屋敷に入り、公卿にすがったが拒絶された
乱戦の末、屋敷内外で戦死した
久坂は引かず、むしろを敷き腹を切って死んだ、入江九一も腹を切ろうとしたが、久坂に止められ、藩主に報告せよと落とした
入江が屋敷門から出ると、槍で顔を突かれた、両目が飛び出し、脳漿が流れた
桂小五郎は藩邸から脱出し行方不明になった
