三の一 井上聞多 | WriteBeardのブログ

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三の一 井上聞多

井上馨、長州藩士、後の財政家、侯爵、この時期、晋作の周りを駆け回っている
銭のことなら井上に聞け、維新早々の評判である
聞多は、藩主毛利敬親がつけた、井上はなんでも知っている、今日から聞多と名乗れ

井上が高杉晋作と横浜を襲撃して外国人を殺傷しようという企て、アメリカ公使が良かろう、十一月十三日武蔵金沢にピクニックする、それを斬ればよい

彼らは土蔵相模に五十両の滞りがあった、聞多、なんとかせい、晋作は言った、聞多が四つ上である
横浜までの旅費も含め百両必要であった

周布に泣きつくしかない、周布の部屋の前で神妙に廊下に座る
聞多でございます
入れ、客がいる、来島又兵衛、江戸藩邸の金庫番であった
何の用だ
先に学資として百両下されたがもう百両下さるまいか
来島の怒号が落ちた
お前らは新橋の朝陽亭で散財し、品川の土蔵相模で流連ときている、逐一わかっておるのだ、一文たりと出せぬ
ところで、来島先生、知人から預かったと、一通の封書を出した
たれからか、来島は封を開く
一読して顔色を変えた
来島も土蔵相模に通っていて、馴染みになっている
井上は手紙を偽作した
前月の恵比寿講で多少の費用を要し手元が苦しいので金子若干お回し願いたい
来島は座を立った
井上は後を追う、やがて来島の部屋に入り懇願した
ついに手箱を開き五十両出した
あと五十両、山県半蔵という若殿の学問掛の部屋に入り、高杉が土蔵相模の支払いに困り、郭の法により桶伏の処分を受けていると嘘をついた
本当か⁈
山県は晋作の父から帰国させるための旅費五十両を預かっている
是非その五十両を出して頂きたいと懇願した
出しはするが、晋作の放蕩を請け負うか、と詰め寄った
必ず請け負いますと、五十両を手にした
その足で新橋朝陽亭に向かう
晋作が大刀を引きつけ久坂玄瑞と激論している
久坂、夷人を斬る前にうぬを斬ってやる、晋作が怒鳴る
外国公使を斬って何になる、久坂は中止すべきという
久坂、議論では幕府は倒れんぞ、これ以上愚論をいうなら斬る、と言った
久坂も負けてない、斬れ、いま斬るがよいと詰め寄った
井上が発狂した、人が百両算段したのに酒を喰らい愚にもつかない論争をしおって、皿、徳利、杯盤を投げ付け踏み割り手負い獅子のように狂い回った
さすがに晋作も久坂も呆然とし聞多を宥めた
結局、予定通り決行と決まり、明晩、旅籠下田屋に会合することになった

焼打ち

この外国公使暗殺計画は未遂に終わった、下田屋が幕吏に包囲されたのである
やむなく引き上げ、蒲田の梅屋敷まで来ると若殿毛利長門守が待っていた
事が洩れたのは久坂玄瑞が土佐の武市半平太を同志に入れようと打ち明けた、武市は大いに驚き藩主山内容堂に告げ、容堂の口から毛利長門守に通じた

一応処罰を受けた、一同禁足、江戸から離された、世田谷村若林に毛利別邸、現在松蔭神社、がありここに移された
禁足所で晋作は御楯組という決死団を作った、ほとんど松下村塾の門生である
程なく禁足を許されると、晋作は新しい企画を立てる
焼玉が作れるか?軍事用放火材である
藩内で志士三十を得れば長州を握れ、長州を握れば天下の事は成る

福原乙之進という小便の近い同志に焼玉一つ預けた、湿らすな、十二月十二日はみぞれ混じりだった
福原は桜田藩邸を出て品川に入ると公儀の辻番所がある、福原はたまりかねて袴をたくし上げ軒下で放尿してしまった、番卒が騒ぎ出した
公儀に対し不謹慎であろう
番卒は福原を捉え訊問した
福原は藩名を出すわけに行かず浪人と言った、藩士なら直ぐに放免されるが浪人ということで調べが長引いた、福原は焼玉が気になった、これが転がり出れば何もかもが終いになる
やっと言い抜けて土蔵相模へ上がり晋作らが待っている
焼玉を出せ
持ってない
福原は番所の一件を言い、取調べの間、懐から焼玉を千切り、千切っては食べ、全部食ってしまった
きゃっ、晋作は一声笑い、真顔に戻った
御殿山の英国公使館を焼打ちにするのだ
幕府は景勝要害の丘に公使館を立てようとしている、今夜これを焼き払い、幕府と外国に紛争を起こさしめ、幕府が攘夷せざるを得ないように持ち込むのだ
御殿山は品川の北西の丘で品川の海を見下ろせる、徳川初期、大名が参勤交代で江戸へ来ると将軍秀忠が出迎えたので御殿山という
今九分どおり出来上がっている、それを焼くのだ

一行が土蔵相模を出たのは午前一時、雪まじりの雨が地を叩き下帯まで濡れた、現地に着いたのは二時、さすが豪勢な普請で空壕を巡らしている、木柵を乗り越え部署に着いた
そこへ幕府の番士が見回りに来た
晋作はそれを見るなり、ツカツカと進み、一慮もせず提灯を斬って落とした
番士は風をくらって逃げた
彼らは板囲へ侵入し火付け役の井上聞多が鋸を挽いて穴を開け、同じく火付け役の伊藤俊輔が潜り込んだ

後年、鹿鳴館で仮装舞踏会が催された時、外国人が伊藤博文に寄り、昔伯爵は御殿山で活躍されたそうですな、と揶揄うと、伊藤はグラスを口に付けたまま目で笑ったという
この舞踏会の主催者は外務卿井上聞多だった

焼玉数個の上にカンナ屑を被せ、導火線に火をつけた
十分燃え出したことを確かめ館内を脱出した
聞多は空壕の底まで落ち全身泥だらけになり高輪まで逃げた
聞多は懇意の引手茶屋で着替え土蔵相模に再び登楼した
晋作らは芝浦の料亭海月にいた
聞多は?と騒ぎになった
夜明け晋作はふと土蔵相模にあがると、聞多が妓と一つ臥床にいた
あいつは不思議だ、晋作は思った

御成橋事件

御殿山焼打ち事件は幕閣を驚かせ、どうやら長州者の仕業らしい、と推測はついたが、断固たる態度に出なかった、長州を敵に回すのは得策でない、と老中レベルの政治的判断から手控えた

これに参加した連中は皆危険を感じ、事件後程なく江戸から蒸発するように消えた
長人の怜悧、と言われるが、
晋作は、わしは江戸で死ぬのだ、おらぁ残るぜ、と江戸に残った

正月が明けると晋作は桜田藩邸に顔を出した、お仲間ならいらっしゃいますよ、伊藤俊輔、山尾、堀、白井で、松ノ内が済んでから江戸を去るという
丁度いい、松蔭先生のご遺骨を改葬しよう、それも白昼江戸のど真ん中を練って行いたい
吉田松陰は大老井伊直弼の指揮によって斬刑を受けた、が井伊直弼が桜田門外で斃され幕府の態度が軟化した、朝廷は安政の大獄で処刑を受けた者を大赦を行えと沙汰した

で、いつなさるのです?伊藤は聞いた
あすよ

松蔭が江戸伝馬町で斬刑されて三年経つ、刑死の日、長州藩医飯田正伯は獄吏や獄卒に死体引き渡しを懇願した、賄賂をさんざん使い獄吏が折れ、内々で下げ渡した
小塚原回向院で尾寺、桂小五郎、伊藤俊輔らと引き取りに行く
四斗樽が担がれてくる、これが松蔭である
これは酷い、素裸で血痕も無残だったが顔色は良く生けるがようでもある、伊藤は大桶に水を汲み首を洗い髪を解き結髪し、胴を洗った
飯田は黒羽二重を脱ぎ、桂は襦袢を脱ぎ、伊藤は帯を解き死体に衣装を着せた
墓穴を掘り埋葬し石碑を立てた
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かしまし大和魂、と刻んだ

文久三年正月五日、晋作は騎馬姿で桜田藩邸を出た、黒塗りの金の定紋入りの陣笠をかぶり白緒であごを引き締め陣羽織を着、皆朱の槍を中間に持たせている
幕吏が遮れば、一議もなく突き伏せるつもりであった
従う山尾、伊藤らも裃をつけ葬服姿である
午前十時小塚原に着いた、番人がいない
今日は掘り放題だ、妙にはしゃいだ
松蔭だけでなく、松蔭と共に処刑された遺骨も掘り出した
改葬地は世田谷若林である
三つの大甕に納めると世田谷目指し出発した
途中、上野に差し掛かると前方は徳川将軍家代々の廟所のある寛永寺である、道路の尽きるところに黒い木柵があり二つの出入口がある、一つは黒門、一つは将軍専用の御成門で、門の手前に忍川が流れ三つの橋がかかっている
中央が御成橋という神聖橋で将軍が参拝するときに用いられる、橋の向こうに番人がいる
晋作の目がキラキラと輝いた
真ん中を渡れ、と言った
人夫は仰天し、旦那あの御橋は御留橋でございます、渡れば首を刎ねられますと叫んだが、晋作は聞かず馬を進め、人夫のえりがみを掴み、渡れと言ったら渡れ!と橋に馬蹄をかけた
番人が大手を広げ、御留橋を知らぬか!とわめいた
晋作は槍を受け取り、どけっ!一喝する
それなる白布、公方様への御献上品でござるか?
晋作はにらめつけ、死骨である、厳かに言った
これには番士は飛び上がるほどに驚き押し通れば天下の大罪、下がれ下がらぬか!と喚くと
晋作は槍を取り直し、
勤王の志士松蔭吉田寅次郎の殉国の霊がまかり通るのだ、と言った
ざ、罪悪人の死骨など、、、絶句した
橋番!下がれ、勅命である!
何が勅命か!
訳は家茂に聞け!と槍を追い渡りきってしまった
名を名乗れ!
長州浪人高杉晋作!と名乗った

この騒ぎもすぐ幕閣に届いた、また長州か、これ程の騒ぎも幕府は不問にした

この報せは国元にも届いた
若殿は井上聞多を呼び、晋作を連れ戻せ、と命じた
結局、晋作は引き戻された
江戸を離れ箱根の関所を通過するときまた事件を起こした
宿駕籠で乗り打ちをするという未曾有の事件を起こした
走る駕籠の中で太刀の鯉口を切り、ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法を構えて人の往来を制する無法があってよいか!大声で叫び、関所破りをした

狂生

三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい、晋作の作である

江戸を去った彼は、道中三味線を弾いて、旅籠に泊まり酒を飲み酌婦をはべらせ唄った
まるでごろつきのようだった

桂小五郎の手紙に、自分とは何者か、と書いている
しかしながら、この晋作、天地鬼神に愧ずる心なく、人を恐るる心もない、悟り開けたかと言えば左に非ず、ただぶらぶらとして
丁度、酒を入れてない瓢箪のようで、尻の据わり悪くしめくくりも悪い、いわゆるゴロツキ野郎なるものか

歴史が彼の出る幕をまだ明けてない、歴史が物狂いする大騒乱の場面である
彼ほど歴史の中の自分の役割を知り抜いた男め珍しい
彼以外に指摘した人物がいた、師の松蔭であった
十年何もするな、十年すれば時勢が君を必要とする、それまでは孝行し藩に忠実に仕え妻子を愛して暮らせ、と言った

晋作が京に入ったのは文久三年三月九日、混乱と賑わいの中にあった
将軍家茂が諸大名を率いて京にいた
将軍をして天子を拝ましめる、将軍にとって会釈する必要のない白昼の幻覚のような政治事態を作り上げたのは長州藩であった

将軍滞京中、天子の上賀茂、下鴨神社への行幸に将軍がお供する

その日が来た
幕府は上洛の裏を見抜いていた
京の治安を確立するため、会津藩千人を常駐さす藩主松平容保を京都守護職に任じ、その支配下の新撰組が出来上がるのも将軍上洛の副産物である

さて、行幸は三月十一日、朝から曇り気味で時々雨が降った
天子の車駕が御所を出たのは午前十時、関白は輿で公家は馬に乗った、将軍も諸大名も馬である
馬は厚総で飾られ鞍は蒔絵であった
馬上の公卿、将軍、大名ともに単衣冠に太刀を帯び、まこと古画の如し
沿道には老若貴賎が座り未曾有の行列を見学した
晋作も見物衆の中にいた
松蔭は天子を地上の最高のものとしたが、天子を拝することなく死んだ
将軍は、顔を上げてあちこち見た
将軍家茂ときに十七である
色白の下ぶくれで眉が上がり如何にも凛々しげな若者である
将軍の顔は大名でも見れない、まして江戸市民でも拝めない
この行列の異例は、将軍が馬上で全身を晒していることであった
こんな若者だったのか、存外可愛ゆげではないか
晋作は顔を上げた
いよう!征夷大将軍!
連れの山県狂介らも色を失った
家康以来の無礼で、鋸挽きの刑に処せられてもおかしくない
ところが、将軍が主役でなく、天子の行幸で手出しできない

いっそ、将軍を殺してしまおう
晋作は実行準備にかかった、大楽源太郎以外二十一人の決死隊まで組織した

年少の可憐な家茂の命を縮めるのは気の毒だが、日本を一新するにはやむを得ぬ