十の一 西郷の日々 | WriteBeardのブログ

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十の一 西郷の日々

人吉の江代にいた桐野利秋がにわかに宮崎に入ったのは五月半ばである

兵糧にする米穀が豊富で兵に仕立てる人口も多い

桐野は宮崎支庁に入るや、薩軍軍務所と門札を掲げた

男子十八より四十までの者を強募し兵に充て、一人も免るる事を得しめず

支庁は大淀川の北岸にある
桐野は朝から支庁に詰めている
南岸に遊郭があり、夜になると桐野は楼で豪遊した

西郷が宮崎に入ったのは五月三十一日らしい
彼は六十日間宮崎にいた
薩軍が南九州の各地で戦っているが、宮崎は真空地帯のように静かだった

大西郷の如きは、明治十年にあんな乱暴をやったけれども、今日に至って、西郷を怨むものは天下に一人もあるまい
これは畢竟、大西郷の大西郷たる所以の本領が明らかに世の人に認められてゐるからだ、と勝海舟は言う

政府軍の感情と配慮も、薩軍を撃つが西郷へは配慮すると言う奇妙な感覚を持っていた

西郷の日常は、気楽な個人に戻っている
二頭の犬を連れ兎狩りに歩いた

西郷の護衛は戦闘がないため楽だったが弾薬作りに忙しかった
兵士は和装だったが、大雪に出陣したまま風雨にさらされ乞食のようだった
宿の庭に土俵をつくり、相撲をとらして喜んだ

桐野の戦略は、薩摩、大隈、日向の三州嬰守であり、野村忍介は、遠く豊後に出、山陽道、四国に足がかりを作るべきだと

薩の大軍が豊後口に入った報せは、山県を驚かせた
彼は四千の兵を割き野津少将に任せた
竹田を潰した後、海岸線に出、日向延岡を覆し、宮崎延岡を切り裂いて、豊後の薩軍と南方の薩軍を遮断してしまえ
野村は読んでいたが、桐野はそうなっても仕方ない、と突き放した

薩軍は軍資金に窮迫し、不換紙幣の西郷札を発行した
和紙の裏表に寒冷紗を張り付け、布で裏打ちしたもので、十円、五円、一円、五十銭、二十銭、十銭があった

桐野が大淀川を越えて妓楼に通うことが度重なった
深馴染みになるとその遊女を女房同様にしてお歯黒に染めさせる
馴染みの松尾のほか二人に染めさせた
桐野は妓をひかせるのに西郷札で払った
桐野は妓楼に通うだけでなく、大淀川に茶船を浮かべ、篝火を焚き、妓達に歌わせ、大いに鬱を散じた
薩人は女、長人は銭と勝は語る
薩摩の武士としての哲学は厳しかったが、通気孔を作るように女色に対する窓だけは寛容だった
明治六年に皇居守護の役目を持つ辺見は火災の時に新宿の妓楼にいた
辺見を切腹させよと議論になったが西郷が不問にした
若い時は女色は仕方ないのだ、勘弁してやれ

野村の軍が突出している豊後の様子が悪くなってきた
政府軍の警視隊は会津士族が多く、戊辰の恨みを豊後で果たす、と唱えた
この方面に戦術能力の高い将校が配された
後の参謀本部川上操六、今信玄と言われた小川又次、奥保鞏が大部隊を率いて豊後に入った
豊後竹田の攻防戦は五月二十日に始まり二十九日薩軍の潰走で終わる
潰走兵は野生に戻った人間のようで、恐怖に支配されているため失語症にかかったようで表情もない
薩兵は長い戦陣で着たきり雀で衣服も擦り切れ乞食のようだった
が、その翌日から伊東が立て直し、一カ月以上よく戦った
西郷は野村忍介に褒美として酒五十樽、牛十頭を与えた
いずれも西郷札で買ったものである
薩軍の勝利の定義は曖昧で敵の守備位置から追い払うと勝ったとする、蝿を追ったに過ぎない弊がある

政府軍が鹿児島大口から入ったのは五月五日、薩軍が人吉にいた頃である
最初に進入したのは第三旅団川路大警視、少将である
薩軍がこれを知れば憤りのあまり死ぬであろう
私学校の暴発は、旧体制破壊の大久保利通と西郷の大恩を忘れて大久保に奔った川路であった
その川路が大口を目指して進撃したのである
大口を占拠した薩兵六百が政府軍五百を目撃したのは五月六日である
牛尾川を挟んで射撃戦を行ったが薩軍の弾薬が尽きた
斬り込め!白刃突撃したが、政府軍の新手に側背を衝かれ鼠が窮したようになり人吉まで逃げた
敗報を聞いて辺見十郎太が千数百を率いて人吉を発ったのは八日
四尺の野太刀を担ぎ目が豹のように鋭く顔赤く髭も鬢も赤い
辺見軍資金は連戦連勝であった
辺見軍と川路旅団の兵力は伯仲したが、指揮に於いて川路は到底辺見に及ばなかった
十日未明辺見軍資金は圧倒的勢いで政府軍を覆し、政府軍は水俣まで逃げた
明日は水俣を奪るべしと猛攻を加えたが政府軍もよく耐えた
やがて弾薬が尽き大口まで退却したのが六月十四日
馬を弾雨の中で駆って、ここを死地とせよ!と叫び、鬼神を見るが如しであった
大口は戦国末期島津氏名将新納武蔵守忠元の領地で老松があり、崩れる味方を叱咤してこの松まで来た時、辺見は戦況に絶望して幹にしがみつい号泣した
もし田原坂の兵児がおいの手元にあれば、と叫んだ
この松は、十郎太の涙松と語り継がれている
辺見はやがて日向に去った

夏めく

尾崎三郎と言う人物がいる
坊主の子として生まれたが、公家に仕えた
三条に仕え、実美の子とイギリスに留学し明治六年に帰国した
木戸孝允にも信頼された
京都に行った時、兄にあった
両親を早くに失ったため長兄に育てられたが、その長兄が宿へ尋ねたとき、座敷に入らず次の間でひれ伏した
長兄は月給7、8円、尾崎は、二百五十円で府知事と同格だった
当時の役所は、九時に出て三時に退出する規定なり

京都で、彼は二人の兄、姉婿二人と同僚三人を祇園の妓楼に招き快遊を持った
芸者五、六人、舞妓三、四人よばれた
興が極まったとき、長兄が突然泣き出した
これは豪遊と言うほどではないが、親族は貧士で今日の宴は五、六十円なれど兄達は痛く感動した
当時、旅館一泊は二十五銭に過ぎない

この間、川路がその職を解かれた
川路が鹿児島に踊り込んではどう仕様もない、大山巌が大久保に手紙を書いた
もし川路が兵を率いて薩摩に入れば女子供といえど憤死せんばかりに激昂し戦意を高くしたであろう

しかし、川路はたれよりも早く大口に入ろうとした

あの男は、気がおかしいのではないか、と大山は思った

太政官の最大の痛手は木戸孝允を失ったことであろう
木戸は病を患い京都に伏していた
墓は萩よりも京都を愛し、東山の一峰の霊山がいい、と
霊山には、かつての同士が多く眠る
桂小五郎と称した頃の仲間と語り合える
木戸孝允の持病の結核が重くなってその生が終わるのは、五月二十六日である
暗殺一条の事は、余の見解を陳述し精々明白の裁判あらんことを希望せり、と大久保に言った
が、大久保は曖昧にした

早く白雲に乗じて去らんとす
西郷もまた大抵にせぬか
感傷性と粘着力とやや女性的な愚痴っぽさを持った革命家は永眠した
四十五歳である

伊藤博文は、卑賊だったが、木戸孝允が保護者として身分を上げた
維新後、特に洋行後、伊藤は大久保についた
伊藤は後年、木戸の弟子に、
君にこう言ってはなんだが、あの人の気難しさはどうにもならなかったとこぼした
伊藤はこのとし、三十七である

山県は伊藤ほどに木戸の恩を蒙ってない
山県は足軽身分から高杉晋作の奇兵隊に志願し実力で頭角を現し軍監になった
山県は異例なほどに西郷を尊敬していた
木戸はむしろ山県を危険な男と見ていた
伊藤博文、大隈重信、寺島宗則と言った若い連中が一躍参議になったが、木戸が激しく反対したため、陸軍卿に留められた
軍人を政治に参加させる事の弊害は測り知れない、と反対した
ご病状は回復は難しかろうと存じます、使者尾崎が伝えると、山県以下長州人は重く沈黙した、その時、電報が入った
木戸の訃報であった

北へ

七月中旬から政府軍が西郷軍を大網で捕らえるように兵力を集中した
熊本は早い時期に政府軍の制圧下にあり鹿児島も抑えた
各地で敗走した薩軍は宮崎に集まりつつある
宮崎は東は延々海岸線で西はことごとく山である
西郷その人はほとんど慣例のように敵が近づくとその所在地を去った
出発は七月二十九日である
長持その他に囲まれ駕籠に乗った
ひとまず北へ向かわざるを得なかった
二十六日段階で政府軍は宮崎の西部南部に充実していた
この間薩軍の降伏が相次いでいる
 なんのために戦っているのか、熊本隊に濃厚だった
現政権を転覆させる壮大な夢を賭けていたのだが、薩人の戦略に従い転戦し宮崎にあっては薩人を故郷に帰すために戦っているようなものだった

美々津が敗れた日、延岡の野村は馬を飛ばし、門川の桐野利秋の本営に至ると、桐野は海風の吹き通る座敷にひとり座っていた
その態度は平常と少しも変わらず、野村を愛嬌よく迎えた
この敗戦のなかで
野村は驚き、稀代の名将ではあるまいかと思った
桐野は若い頃から徹頭徹尾格好をつける男で気腑と伊達だけで生きてきた
桐野に責任感などなかった
この一挙も気腑で大博打をやり、失敗したところで西郷と薩摩一万士族と自分が死ぬだけのことである
戦場に於ける死はむしろ薩人の美とするところである

全軍は潰乱した
戦うにも弾薬がなく、樫の木を細かく砕いて銃口に詰める者もいた
食糧も少なく、苺と草木の葉だけを食ったと言う兵もある