先日、身内の法事だったのですが、
菩提寺の住職さんによる念仏のやり方がとても興味深いものでした。


通常、念仏を唱える際に使われる鐘や木魚といったものは、
念仏自体のリズムを一定に整えるものとして使われるらしく、
これは歴としたリズム楽器でありまして、それを使いこなす住職さんは歴としたドラマーでもあります。


お経が始まると、住職さんは器用に両手を使い、
ごーん、ごーん、ぽんぽんと
鐘や木魚を打ち鳴らしていきます。


俺自身が、ドラマーである為に、
何だかお経の内容よりも、その手にばっか興味がいってしまい、
商業病だな...と心の中で呟きながら、
その時間の経過に浸っておりましたが、

あー、鐘を鳴らす時も、
余計な音が鳴らないようにしっかり鐘に触れながらミュート(消音)してんだなぁとか。
手首の使い方がしなやかとか。
ほんと念仏中にどうでもいいような事を。。。


ただ、



なーむーあーみーだーぶー
なーむーあーみーだーぶー



ん?


木魚が念仏に対して裏で入ってくる。


ん?今度もだ。


これには何か訳があるのかな。



そうなんです。
今でこそ、念仏を唱える際に鐘や木魚は欠かすことの出来ない存在になりました。(そもそも宗派によっては必要とされない場合もあるそうなのですが)
念仏宗のひとつである浄土宗においては、その使い方が独特で、

南無阿弥陀仏、
“なーむーあーみーだーぶー”
の、
“ー”、
いわゆる伸ばす母音の部分に木魚を打ち鳴らすのです。
これは、仏教的には“間打ち”と言われているらしく、
音楽的な言い方をすれば、裏打ち、
いわゆる、スカなどに多用されるリズムなのです。

なぜ、そのように鳴らすかには訳があって、
要は間打ちをする事で、
念仏する声に音が被らないようにし、あくまでもお経が主体となって、その意味を切ることなく唱えられるのだそうです。
浄土宗の念仏は、南無阿弥陀仏を唱える事で、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生されるというものです。
元々、念仏とは称名念仏と言い、口に出して唱えるものなので、
その“口に出して唱える”ということにとても比重を置いているのだと思います。
そして、付け加えるならば、
恐らく、“伝える”という事に比重も置いているのであろうと。
南無阿弥陀仏は、感謝の念仏とも言われています。
他力(阿弥陀仏)を信じる事で全ての人は救われる。救われる事に対する感謝を伝える事が、南無阿弥陀仏であると。
よって、その言葉を
自分も伝えやすく、
相手にも伝わりやすく、
リズムに合わせながらも配慮しているのではなかろうか。


しかし、実際にそうすることで、
確かに南無阿弥陀仏が唱えやすくなるのです。
裏のリズムを取っている事で、発音を大事にしながらも、伸ばしている母音の部分もしっかりと強調されます。


「声帯がしっかり開くので、心も穏やかになるのです」
と住職さんは語っておられましたが、
うーん、確かに。
そもそも自分の心が穏やかでなければ、
感謝を込めて伝える事も出来ない。
なるほど。
全てにおいて理にかなっている。


仏教の何ひとつも知らぬ俺みたいな凡人がそうやすやすと語れる内容ではないですし、
人によって考え方は様々かと思われますが、
俺自身が音楽をやっている事で、
感じれたその事にとても嬉しさを覚えました(^○^)

いやー
奥が深いぜ仏教。
とても音楽的だぜ仏教。