嘘の中に「多少の本当」を入れて自分の言うことを信じ込ます人もいる。
身体的特徴など「誰でもわかりやすい」がだからといって、そうとも限らない。
むしろ、逆に「悪用されやすい」
だから「身体的特徴の弱みを言わない人もいる」
そういう人間もいると知ってだ。
身体が弱い、身体的特徴があるなどは、「悪用されやすく攻撃されやすい」部分もあるし逆に「それを逆手にとって同情を引く」人もいる。
どちらにも偏らずに「それより、その人の人間性」を見ればわかるのだ。
「良心にかけてないか?道徳性はあるか?法や社会的規律を守っているか?」
身体的に何かしらみんな齢とともに悪くなっていく人もいる
障がい者の殆どが後天的だったり、あるいは途中で軽快したり、したりしているのだ
正しいデータを知るべきと医療関係の家に育った私は思う
健常者だって「人間性悪ければ、そちらの方が恐ろしい」のだ
美人だって「本当に性格が悪い」のと「僻みやふとした誤解から言われる方もいる」「憧れと悪口は同居したりする」なので「羨望の悪口は気にしない事」と思うが、、、
田舎は噂が恐ろしい
そもそも「性格悪い?」って、道徳心とか法律を守らない、を除けば「性格の不一致」と思う
「障がい者に優しいから優しい」とは、ある種、「正しいデータを知らず偏見にまみれた中で身につけた価値観」とう思う
「障がい者は攻撃されることもある(余程の正しい知識のない地域だ)」事から、そう言われるのだとも推測されるが、、、
それより健常者、障がい者に関わらず「人間性悪いことの方が恐ろしい」
田舎の県外にいるときに「誰の言うことを信じればいいか?田舎は噂が横行する」と困窮したことがあった。
「法律を守っているか?」「集団の中で、癒着とかでなく、規律を守り、皆の心情を思いやっているか?」「最初は当たり障りなく付き合う」「噂ずぎでないか?」で大分、乗り切った。
「尾鰭のつけた噂の好きな人」というのは「あまり信用できない」
「信ぴょう性のないことを口にする人」だからだ
「投票で選ばれた、とか。
その道の専門家で信頼できる方が言われた」ので無いと信ぴょう性は薄い」
むしろ「専門家でも無いのに言い切る人は信用できない」と思う
「自分の言うことに責任を持ちきれもしない」のに、と思う
「信頼」というのは「長い付き合いの中で培われるもの」なのだ
もしくは「そういった経験」のある人からは「判断ができる」のだ
ただ、それも「誤解を避けるためには言わなくてはいけない時もあるが、、、」
全てを言っても「理解できずに誤解して、人間性が悪いと逆に攻撃されたりするのだ」
「全てを言わなくてはいけない筋合いの人間か?」も考えることだ
「全てをさらけ出す」なんて「攻撃されることが絶えない」はずなのだ