【伊達天文記】第20回 長尾為景の死 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

伊達稙宗が葛西家、岩城家を支配下に収め

着実にその版図を拡げている間、

越後では内乱の真っ最中であった。

 

この乱は越後守護・上杉家の一族である上条定憲かみじょう さだのり

長尾為景に対して挙兵したことから始まった。

さらに為景の傀儡として越後守護に祭り上げられていた上杉定実さだざね

反為景に動いたために、為景に叛旗を翻す国人が続出した。

 

守護という権威に対抗する必要があると感じた為景は、

将軍・足利義晴に仲介を申し立てた。それを受けて幕府は、

守護・上杉定実に対し乱を止める旨を記した御内書を発した。

 

だが権威の落ちた幕府では、この乱を治めることができなかった。

越後は西から上越・中越・下越の3地方に区分されるが、

そのうち中・下越は反為景陣営が席捲していた。

 

中越地方を奪還すべく為景陣営は、

北条きたじょう光広・安田景元を中心に敵の旗頭である上条定憲を

相手に奮戦したものの戦線は膠着状態に陥った。

 

逆に上条定憲は、信濃、会津といった隣国に援軍要請の使者を送った。

これに応える形で会津の蘆名盛舜もりきよは出陣し、

会津との国境に接する中蒲原なかかんばら郡に陣を張ったのである。

 

隣国すらも巻き込む騒乱となり、打つ手がなくなった長尾為景は、

ついに朝廷に仲立ちを依頼したのである。

これにより朝廷は両陣営に対し、乱を治めるようにとの綸旨りんじが下された。

だが、この綸旨の効果もなく騒乱は収まる気配を見せなかった。

 

上条定憲が兵を起してより6年が経った天文5年(1536)、

柿崎・宇佐美の兵を従えた上条軍が為景の本拠地・春日山城に向け

進軍を開始した。それに対し為景も迎え撃つべく出陣した。

 

両軍は三分一原において激突し、為景が大勝を収めた。

 

この戦の後、為景は家督を嫡男・晴景はるかげに譲った。

その後、病に伏せった為景はその年内に亡くなった。

すると反為景陣営は、矛先の対象を失ったことから

刀を納め、新しい守護代・長尾晴景に帰服したのである。

 

この騒乱はいったい何であったのか。

為景の強引な治世は、国人衆がこれまで持っていた自治権を

著しく侵害したために激しい反発心を生み、それが騒乱の火種となった。

だが為景の統治手法は、これから迎える戦国時代を生き抜くためには

必須のものであった。それを行えなかった国は他国から侵略された。

 

為景の死によって、越後の騒乱は確かに終息した。

だが、為景によって起された新たな統治方法は、

越後国人衆の記憶に刻まれたのである。

 

為景の後を継いだ長尾晴景の器量は乏しかったため、

またも守護・上杉定実をトップに据える統治を行うしかなかった。

これによって守護の力を取り戻した上杉定実であったが、

次第に彼に子がないことが問題となっていくのであった。

 

そして上杉定実は、自分の娘が嫁ぎ先で産んだ子に視線を送るのである。

彼にとっては外孫にあたるその人物こそ伊達稙宗なのである。

 

そして、そのことがまた越後の内乱を呼び起こす。

越後国人衆は守護体制による統治の限界を認識することとなる。

それを打破する方法を彼らは為景によって教えられていた。

今度は、国人衆自らが望んで新たな統治方法を取り込んでいくのである。

その中心となるのが、為景の次子である長尾景虎であった。