【奥州探題史】第41回 管領・細川頼之の統治 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

管領・細川頼之の治世の特徴は、
足利将軍を頂点とする
身分秩序の徹底にあった。

そのためには、南北朝の動乱による
実力主義の世に終止符を
打つ
ことが先決であった。

そこで彼は、年貢徴収に関する
応安大法おうあんのたいほう」を制定した。
これには年貢徴収の他にも理由がある。

鎌倉幕府が滅び、
南北朝動乱の混迷の時代、
各地で合戦が起きた。

鎌倉幕府の基本統治は、武家の土地保障であり、
寺社や公卿の荘園に関しては、
関与していなかった。

だが、長引く争乱によって、
各地の荘園で各陣営の軍による
兵糧徴収が行われたのである。

当時の将軍である足利尊氏は、
北朝の公卿達に徴収を止めてくれる様、
懇願こんがんされたため、手を打つことにした。

とはいえ、兵糧確保は軍隊維持には不可欠である。
そこで荘園における徴収は年貢の半分までと
するという「半済令はんぜいれい」を施行した。

これは妥協案であった。
荘園での兵糧徴収は認めつつ、公卿のために、
半分は残してやれというものであった。

細川頼之は、この半済令をより発展させ、
次のような条件をつけた。

天皇・院、寺社の荘園について一切の徴収を禁止した。
一方で、それ以外の幕府により認知した地では、
例え以前に公卿領であろうとも「半済」を許した。

この法の施行目的は、その効果よりも
争乱中の暫定措置であった「半済令」をやめることで、
全国に「泰平の到来」を宣言することにあった。

続いて、頼之は禅宗に対しても
取締り強化を図った。

足利幕府草創期、足利尊氏ら多くの武将が
禅僧・無窓疎石むそうそせき帰依きえしていた。
そのため、禅宗は幕府により保護されていた。

そのことが禅宗門徒におごりを生じさせ、
修行に対する精進を欠きさせ、
贅沢ぜいたくな生活を好むなど堕落し始めていた。

頼之は無窓疎石を敬慕しており、その甥である
春屋妙葩しゅんおくみょうはも尊敬していた。そのこともあり、
禅宗門徒が本来の姿へ立ち返って欲しかった。

だが、禅宗門徒からすれば、
一連の規制強化は、幕府による
禅宗宗門への介入と捉えられていた。

この鬱積うっせきがある事件において
爆発することとなり、それが頼之の
政治生命の危機を招くこととなる。

次回、宗派の対立に頼之が巻き込まれる
 「南禅寺山門事件」について書きます。