北畠顕家編ー第9回 尊氏、再び東上す。 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

北畠顕家が、陸奥将軍府・多賀城に凱旋帰国した頃、
京において大事変が生じていた。
それは、九州へ落ち延びていた足利尊氏が、
大軍を催して東上を開始したのである。

時は3ヶ月前の尊氏都落ちに戻る。
かの折の戦いにおいて、足利軍の敗因は
朝廷に対し逆賊の烙印を押されたことにあった。
そこで、尊氏は妙手を打った。

実は、皇室も一枚岩ではない。
96代・後醍醐天皇から遡ること約40年前、
88代・後嵯峨(ごさが)天皇より、
2つの血筋に分かれている。

便宜上、後醍醐帝の属する血筋を南朝系
もう一方の血筋を北朝系と呼ぶこととする。

従来は、両系統から交互に天皇を
即位することとなっていた。

(これを両統迭立[りょうとうてつりつ]と呼ぶ。)

しかし南朝系の後醍醐天皇は、
「次代以降の天皇位は、自分の血筋のみにする。」
ことを望んだ。
そこでこの不文律の両統迭立を反故(ほご)にし、
北朝系を蚊帳(かや)の外に追いやったのである。

そこで尊氏は、北朝系である光厳(こうごん)上皇
願い出て、院宣(いんぜん)を賜ったのである。
院宣には、
新田義貞与党を誅伐し、天下に平穏をもたらすこと。」
とあり、あくまでも朝敵討伐が目的であった。

これにより、足利軍もまた
錦の御旗を掲げる官軍となった。

さらに尊氏は、播磨の赤松円心を仲間に引き入れ、
予測される足利討伐軍の進軍妨害を依頼した。
そして、自身は2月上旬に九州に上陸した。

足利軍は少弐氏らと合流し、
多々良浜(たたらはま)において、
南朝方の菊地軍と激突した。
戦力比は、足利軍5百未満に対し、
菊池軍は10倍以上の5千であった。

当初は、尊氏の弟・左馬頭(さまのかみ)直義
決死の突撃で互いに一歩も引かなかった。
しかし時が経つにつれ、兵力で圧倒する菊池軍が
徐々に足利軍への包囲の輪を狭めていった。

ここにおいて直義も、もはやこれまでと覚悟し、
自身の右袖を引きちぎり、
「兄上にこれを形見としてお渡しせよ。」
と部下に託すや敵中に駆け入った。

これを見た足利方将兵は、
「左馬頭殿を討たすな。」
と乱戦の中を掻き分け、直義救出に向かった。

その乱戦の最中、南朝方の副将である
阿蘇惟直(あそ これなお)が深手を負った。
さらに風向きが足利方に追い風となると、
次第に足利軍が優勢になっていった。

これを見た南朝方に与する武家らは、
次々と足利軍へ寝返りしていった。
そのため、菊池軍は敗走に追い込まれたのである。

この戦いの勝利と光厳上皇の院宣効果により
菊地氏を除く九州一円を足利方とし、
再上洛に向けて準備を整えたのである。

一方、南朝朝廷は新田義貞に足利追討を命じていた。
数万にも及ぶ大軍を持って西へ進軍した新田軍であるが、
播磨の赤松円心が立てこもる白旗(しらはた)城
激しい抵抗にあい、多くの月日を費やした。

そして白旗城を落せぬまま3月半ば、
「足利軍、大軍を催して東上の途につく。」との報を受け、
新田軍は京へ戻らざるを得なかった。

そして、北朝を擁する足利軍と
南朝を擁する新田・楠木連合軍の
官軍同士の戦いが始まるのである。

次回は、「正成の忠義」について書きたいと思います。