第18回 反伊達連合軍の北進 | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

佐竹義重(さたけ よししげ)。

現代、佐竹氏の知名度はあまり高くない。
だが、この時代における彼の勇名は関東のみならず、中央まで聞こえていた。
越後の上杉謙信は、例年行事のように関東討伐(=北条討伐)に
乗り出していたが、年々強大になる北条氏には単独での討伐が難しくなる。
そこで晩年の謙信は、その頃には北関東の一大勢力にまでなった
佐竹義重に対し、対等の同盟を請うたほどである。

戦国大名としての『佐竹氏』は現当主・義重の
曽祖父 義舜(よしきよ)
に始まる。
義舜は一時、滅亡の危機に追いつめられるが、
決死の反撃から逆に相手側を滅ぼし、以後着実に領地を拡大する。
義舜⇒義篤(よしあつ)⇒義昭(よしあき)と代を経て、
佐竹氏は着実に力をつけていき、現当主・義重に至る。

義重は齢40歳ながら、関東の覇者”北条氏”と干戈(かんか)を交えながら
本拠地の常陸(ひたち=茨城県)の統治基盤を安定せしめ、
下野(しもつけ=栃木県)の宇都宮氏、那須氏、
南奥州(福島南部)の岩城氏、白川氏を傘下に収めた。

北条氏は数度に渡り、佐竹領へ征旅(せいりょ)の軍を発するも
そのたびに撃退された。
その勇猛さから”鬼義重”の異名をもって知られるようになる。

その義重の元に、同盟国・芦名氏から使いが来たのである。
伊達政宗masamuneにより攻撃されている二本松城・畠山氏へ援軍として我が方(芦名氏)と合同で出陣して欲しい。」
という内容である。

義重にしてみれば、この依頼には戸惑いを覚えたに違いない。
なぜなら佐竹氏は歴代、南奥州諸領主との関係は良好とは言えない。
佐竹領と隣接する南奥州の岩城氏、白川氏を傘下に納めたのも、
南奥州への進出というより
北からの守りを確保したかったからに他ならない。

それが、南奥州の盟主的な存在である芦名氏からの救援要請。
芦名氏の君主は幼君であり、佐竹義重の実力から考えると
この要請は実質、今回の芦名・南奥州諸国連合の統率者になることを意味する。

『昨日の敵は今日の友』の言葉がよく似合う叛服(はんぷく)常無しの
南奥州諸国
を束ね、後背の北条氏の動向を気にしながら出征。
これほど不安要素の多い遠征は非常に危険である。

だが、義重は了承した。
それは、政宗の行動が南奥州を完全支配下に収め
中央政権に認めさせる地方政権の確立にあることと読んだからである。
もし、そうなってしまえば佐竹氏は北に伊達家、南に北条氏の
挟撃にあい、存続の危機が生じる。

それを阻止するため、政宗に痛打を食らわせ、
南奥州侵攻の意図を絶つ必要がある
と断じたのである。
だが、北条氏がいつ自国領へ侵攻するかわからない。
そのため、義重は短期決戦を狙った。
すなわち佐竹氏が動員できる最多の軍をもって伊達家へ侵攻する。

ここに佐竹義重自ら率いる佐竹軍1万の大軍が常陸を出立した。
北に侵攻するにつれ、芦名氏を始めとする南奥州の各諸氏が合流し、
総勢3万にも及んだ。

天正13年(1585年)11月、政宗が家督を相続して約1年が過ぎた頃である。

次回は、政宗の迎撃体勢について書きます。