最近、橋本愛と佐藤二朗のドラマ現場での騒動が大きな波紋を呼んでいる。双方の言い分や報道が飛び交っているが、個人的にはこの一件、単なる芸能ニュースの枠を超えて、現在の日本社会が抱える「構造的な病理」を浮き彫りにしていると感じる。今回は、少し厳しい視点かもしれないが、現在の報道の範囲内で私見を述べる。
まず大前提として、世の中には一般的な常識や「安全圏」が通じない職業が存在する。その一つが「役者」という表現者の世界である。当然ながら、相当の心構えが要求される。
今回、橋本サイドは事前にボディタッチ等のNG条件を出していたようだが、仕事を受けたからには、表現の幅を自ら狭めるような要求は本来言うべきではないと考える。この時点で、厳しい役者の世界における「素質」や「覚悟」に疑問符がついてしまう。
被害者意識がもたらす「不快感」と「不信感」
この騒動の根本的な原因は、制作側(フジテレビ)の伝達ミスである。現場で急にNGを知らされた佐藤サイドが気を悪くするのは、人間として、また真剣に作品に向き合う役者として当然の感情であろう。
その後、佐藤サイドから楽屋で叱責や厳しい意見があったようだが、これも「プロの現場における先輩からの助言」の範囲内ではないか。それを即座に「ハラスメント」と捉え、弁護士や事務所を立てて抗議するのは、現代のルールで協議をすればハラスメントと断定せざるを得ないのは理解できるが、役者という立場上、ある程度厳しく言われることは覚悟していなければならないはずだ。
善意で演じていた先輩の立場を理解しようとせず、ただ「被害を受けた」と主張する姿勢は、役者としての器の小ささを露呈しているように見える。佐藤氏の「役者をやるべきではない」という発言は、ある意味で的を射ている。
被害を訴えれば何でも同情してもらえる時代は終わった。世間がこの騒動で橋本サイドに不快感や不信感を抱いたのは、その過剰な「被害者意識」が透けて見えたからであろう。
「何でもハラスメント」が表現と仕事を殺す
これは芸能界に限った話ではない。現在、世間は何でもかんでも「ハラスメント」として処理しようとする風潮に、完全に嫌気がさしている。少しでも厳しい指導をすればパワハラとされ、自分の思い通りにならなければ被害者ぶる。その結果、現場の人間関係は萎縮し、社会全体で「仕事の質」が低下している現場も多い。
被害者意識が強すぎて、それが態度や行動に出る場合、周囲の人間を過度に萎縮させる。これこそがハラスメントではないのか。
傷つくことを極端に恐れ、コンプライアンスという無菌室に引きこもる表現者ばかりになったら、人を感動させる演技ができなくなってしまう。
私たちは今、過剰な被害者意識が「本物の表現」や「プロフェッショナリズム」を小さくしていく過程を目の当たりにしているのかもしれない。
記事の最後に
橋本さんと佐藤さんの間にどのような事情があったのか、それは当事者だけが知ることである。二人がむやみにバッシングされても、誰の得にもならないし、余計に事態が悪化するだけだ。二人が和解することを切に願う。