現代の日本キリスト教会では、少なくとも個人的な経験上、初めて会う牧師からはゆく先々で「洗礼(バプテスマ)は受けましたか」と質問をされるのだが、同じような経験をする方も読者のうちにいらっしゃるのではないだろうか。この質問をされるたびに毎っ回違和感を覚える。その理由は、はっきり言うとこの質問自体がアホらしいことだ。そもそも「バプテスマ」には複数種類がある。いわゆる水の洗礼に加え、聖霊のものと火のものだ。(ルカ3:16) それなのに、現代教会では”バプテスマ”は通常物質的な水を意味すると教えられているようである。しかし、事実上、これだけでは何の洗礼のことか不明であり、故に上記の質問には明確に答えることができない。また、上記の質問の持つおかしな点はもう一つある。それが、「受けましたか」と過去形になっていることである。無論、これは彼らが水のことであると決めつけているために生じている問題だが、火による洗礼がいつのことか正確に判っていなければ、過去形を当てはめることはできない。むしろ可能性としては、この火の洗礼が皆さんが目にしたことのある水での洗礼のようにものの数秒で済むようなものではないことが大いに考えられる。しかし上述通り、根本的な問題は「洗礼」を物質的な水で行うことと断定していることにあり、それに関しては皆さんにも考察して頂きたいことがいくつかあるので、本記事ではそれに対する私の意見を共有致したいと思う。

 

まず初めにシェアしたい点がこちら。

 

マタイ28:19でのイエスの言葉の中には”水で”が無い

 

これを挙げる理由は、現代教会ではこの句のいわゆる”大宣教命令”を理由に物質的な水で洗礼を与えることが義務付けられていると教えられていることだ。私が会った牧師たちのほとんどはその行いが義務・任務であると信じられていることを私に話された。

もちろん私自身これが”水”の洗礼を意味しないと考えているわけではない。ここでは、上記の質問に関して、この句に”水”という文字が無いことから、マタイ28:19をつかって物質的な水でのバプテスマが求められていることを支持する根拠として提示することはできないことを示させて頂いている。

 

またこれが水かどうかではなく、物質的な水かどうかという問題があるので、次でそれを考察する。

 

何故霊的な水での洗礼について議論がされていないんだ?

 

理解を深めているクリスティアンなら分かるであろうことで、イエスに従う聖者としての歩みには、物事の霊的な側面を考えることが必要不可欠である。天的な側面とも言えるだろうか。要するに、「無価値なもの」(地的な限りのある物事)と「より良いもの」(永遠に導く物事)の二つの側面の内、後者を理解することだ。地上にある物事は天の形式にならって造られている。ヒトの形も、神の像にならって初めに形作られた。木の実や器など、すべてに霊的な対が存在する。水も同じだ。井戸に来たサマリア人とのイエスの会話を思い出してくれれば、人間の飲み水とは違う、生きた水があり、その水が飲み水のような物質的なものでないことは分かるはずだ (ヨハネ4章)。なので質問する。もし霊的な飲み水が存在するなら、同じく霊的に洗うための水も存在と考えるべきではないかそしてお気づきだろうか、そのような水は聖書の中で既に話されている(ヘブライ10:22、エフェソス5:26、ヨハネ13:8)。特にエフェソス5:26に関しては、「言葉」が洗いの「水」として明確に教えられている上、ヘブル10:22に関しては、物質的な水でのバプテスマに固執されている牧師たちにこう質問したいー

「パウロの言う清い水とは何ですか?」

「彼の意味した清い水をあなたたちがお持ちなら、それで洗って頂きたい」旨を伝えたら、彼らはどう反応するだろうか…。残念ながら、今まででそこまで機転の利いた返しが出来ていないため分からない。今後注意して思い出したいと思う。

 

兎にも角にも、上のことから、私は次のように考えるー

 

「霊的に洗礼する」ことが可能で、それを「言葉」によってのみ行える

 

この考えを支持するために読者の皆さんにご覧になって頂きたい聖句は以上に限らない。箴言18:4を開いてほしい。

 

ソロモンは人の口から出る言葉深い水に例えており、知恵も一種のとして表現されている

 

これは聖霊によりイエスから与えられる知恵の中に浸ることができることを意味していると思う。1ペテロ3:20で彼はバプテスマを大洪水の時の水とも比較しており、その時の水は想像できないほどの深い水だったはずだ。洗礼者のヨハネが人々に洗礼を施した場所であるヨルダン川の水量とは比べ物にならず、「バプテスマ」の重要性が何千年も前のこの裁きの海水との類推により示されているのだと思う。したがって、考えてみてほしい。知恵の言葉に浸るのと、どっかの海水に死なない程度に浸してもらうのと、どちらがより"深く"、有意義だと思われるか?私の答えはもう決まっている。言うまでもないだろう。英語ではそのような選択肢を「No-brainer」という。まさにノーブレイナー。

 

このように、我々が施さなければならない”バプテスマ”のための水が物質的なものでない可能性は大いにあることをお解かり頂けているかと思う。いや、そう願う。また、そう判断する材料は、実は使徒の記録にもある。

 

"未完了"のバプテスマ

(使徒 8:12, 18:8)

 

上記の聖句の「洗礼された」に当てはめられている動詞形(εβαπτιζοντο)は”未完了”と言われるものであり、未完了は基本的に継続していて完了に至っていない行動・行為を意味する。つまり、これらの句で福音を聴いている聴衆らは「洗礼された」とされてありながらそれが進行中だったことになる。実際、8:12の口語訳では「ぞくぞくと」と入れることで聴衆が次から次へと水に浸された光景を映そうしたことが見て取れる。しかし、フェリペはその時点でまだ福音を現在進行形で伝えていた状態であり、それだけのプールがどっか近くにあったことを示す記載も無いため「続々と」は一つの解釈に過ぎない。むしろ、言葉を発しながら何人も水に沈めていた光景は非常に考えにくい。18章のパウロのコリントでの伝道に関しても同じことが言える。今でこそ、ヨハネのヨルダン川での行いを聞いているから、福音を聞いている群衆が自ら洗礼を受けに行く様子を想像できるが、これはメシアとは全く関係がなかったコリント人であり、信じた人々が洗礼の意味を知っていて受けたとは非常に考えにくい。その点でもやはり言葉を信じることが”洗い流し”になっていたと考える方がより自然ではなかろうか。したがってここでの指摘は水が使われたと明確に判断することはできないことだ。

 

フェリペは宦官に対し「よかろう」と言った

(使徒8:37)

 

物質的な水のバプテスマを絶対とする牧師の方々は宦官がとある水辺で洗礼を受けたことを根拠としてこの2人の物語挙げるが、ここでは二つの指摘点があり、一つは太文字になっていることであり、もう一つはフェリペが宦官に対して「心から信じれば」と言っていることである。まず「よかろう」に使われている単語は「法的」という意味を持つ。「法的」というからには法を害することを恐れたと考えられるが、水でバプテスマを与えることが命令に従うことならばどうして違反を恐れる必要があるのだ?それの答えは二つ目の指摘点である、「心から信じ」る必要があるということだと考える。心から信じていない人を洗って「洗礼された」とみなすことはその意味上、本末転倒であり、しっかりとした言葉で教えて弟子にしていないため、少なくともマタイ28:19の命令には背くことになる。したがって、重要だったのは宦官の真摯な心であり、もしその心を得るのが言葉という水で、フェリペが「法的」と言ったことでそれを考えていたなら、冒頭のように物質的なバプテスマが”絶対である”もしくは”命令された”とする主張の根拠とすることはできないと言える。だろう?

 

このことに乗じてもう一つ指摘点がある。

 

洗礼される人はまず宣教者の話を聴いている

(使徒2:41、8:12、9:18、16:33)

 

これらの句ではバプテスマを受ける者らはみな、誰かしらのみ言葉を聞いてイエスが神によって遣わされたキリストであることを説得されていて、上述にある「心から信じる」ことに至っている。これは言い換えれば、バプテスマを受けるには、そのレベルに至るほどの説明が必要であるということだ。私が知り合った牧師の方々の中には、イエスキリストが唯一の救世主だと信じていない半信仰者にまで洗礼を勧める方もいらした。その勧められた方の方に限れば旧約聖書の正確性や成就された預言の重要性さえ認識しておらず、そのような方にバプテスマの授受を求めることは、上欄のように無意味であり、故におそらく約束違反に値する。経験上、同じくイエスによって成就された旧約聖書の預言が意味することイエスがキリストでなければならない理由などの信仰の核心をつく教養を得ていない半信仰者が他にもいらっしゃることも私は知っていて、そのために私が今持つ懸念の一つとして、同じように理解の薄い半信仰者をむやみやたらに”洗礼”されようとする牧師さんが他にも結構な数でいらっしゃるのではないか、というものがある。それでは本当に意味が無いのでどのくらいおられるのかぜひ知りたい。2000年前使徒らによって行われたように神から受ける聖霊の知恵によって未信者を洗礼前に心から信じさせることができる召使いはどれほど存在するのだろうか。気になるところである。言わずもがな、人に説明するには、自分で理解している必要がある。故に、英語には「If you can't explain it simply, you don't understand it well enough」 (端的に説明できないのは、自分でよく理解していないということ)という誰かの引用句がある。同じようが聖書の説明にも言えるだろうか。ちなみに私のこの議題につく端的な説明は「霊的な水もある」ことだ。

 

まとめ

 

以上、バプテスマに関する私の真剣な考えを上にずらっとおまとめ致したところだが、全体的に考えがまとまっているものの、完全論破には至らない一部もどかしい部分も残る状態となっている。しかし霊的に洗うための水が存在することは確かであり、それを、皆さんにも覚えておいていただきたいと思っている。それにあたって、それでも物質的なバプテスマを支持されたい場合は、2つほど自問すべきと考える質問があり、それに対しての答えを自答して頂きたいし、その答えを教えて頂きたいとも思う。それがこちら

 

  • イエスの12人の弟子たちを水で洗礼したのは誰で、いつか。
     
  • バプテストのヨハネを水で洗礼したのは誰で、いつか。
 

記憶によればヨハネ自身は自分の洗礼方法で洗礼されていない、または福音に書かれておらず、イエスは「誰でも信じ洗礼を受ける者は救われ、信じない者は裁かれる」と言われたが、この洗礼が物質的な水のものであり、ヨハネがそれを自分で受けていないとしたら、彼は裁かれることになる。もちろん違うと思うが、それでは矛盾になる。それを含めて上二つの質問は重要ではないかと思う。私のこの問題がいつか解決することを祈っている。