ダージリンの山で紅茶作りを学び始めて3ヶ月目。日々の忙しさに埋もれて、また、冗談を言い合うだけで時間が過ぎて行く友人ができて、しばらく自分の言葉でものごとを深く考えることがなかったこの頃、久しぶりに落ち着ける日曜日が訪れた。
本当は休息をとる予定だったのだが、ベッドに横になると脳が活発になるのは不思議なことだ。ダージリンに来て3カ月、そろそろホームシックも垣間見えてくるこの頃、漠然と感じていた疑問が彷彿と浮かんできた。
「なんで俺紅茶の勉強してんだ?」
思えば自分の決断のはずだったのに、どうもしっくりこない毎日だった。まぁ研修を受けているこの場所が想像していたものと少し違うということも一役買っているのだが(ここの人たちは英語がひどくて、満足な説明がなされない、よって学ぶスピードが遅い)、そもそも自分がなぜ紅茶を選んだのかがはっきりしていなかったのだ。毎日ダージリンティーを作ることの奥深さは確かに魅力的で、没頭できるものではあるのだが、それが自分の本当に求めているもののベクトルと一致していなければ、本当の意味でやりがいを見出すことは難しいものだ。
ということで、なぜ紅茶を学ぶことになったのか、自分に問うてみようと思った。
そもそも、俺は紅茶が好きだ。でもここに来るまでに、一体何杯のダージリンティーを飲んだだろうか。俺は両親の影響もあり、根っからのミルクティー好きであった。ダージリンティーの印象と言えば、「ミルクを入れるとまずい」といった具合だ。なのにダージリンの山へやってきたのには、「ダージリンティー」として区切られた世界ではない、何か別の世界に魅力があったからに違いない。ただそれを明確に理解しないまま、漠然とした魅力に呼応してやってきたのだ。
一つ言えるのは、このダージリンで過ごす期間は、「投資の期間」であるという位置づけが自分の中ではっきりしているということ。ここにはただ淡々と金を稼ぐために来たわけではない。何かここでしか得られないものを得て帰るために来たのだ。しかし、その姿がはっきりとしていない。ここに一つ越えなくてはならない壁がある。
以降、しばらくこの「本当に得たいもの」をはっきりさせるために何本か記事を書いていこうと思う。
Sanity - is hard to get.
You open your mouth, talk alot,
but you don't know why these words are coming out...
Total insanity inside yourself.
Always say what you mean is hard isn't it.
but its one of the most important things you have to do.
That's what I think.(and I mean it!)
Say what you mean to say, at the right time.
If you can nail the moments,
you can bulshit the rest of the time.
But you've got to be able to make these moments...
Hey I'll reach there slowly.
Vistari, vistari.
You open your mouth, talk alot,
but you don't know why these words are coming out...
Total insanity inside yourself.
Always say what you mean is hard isn't it.
but its one of the most important things you have to do.
That's what I think.(and I mean it!)
Say what you mean to say, at the right time.
If you can nail the moments,
you can bulshit the rest of the time.
But you've got to be able to make these moments...
Hey I'll reach there slowly.
Vistari, vistari.
最近、かなり体感速度の早い日々を送りました。
毎日やることがある私は恵まれていますが、
その大半は自発的な行為ではなく、
何かに追われてこなしてきた用事の数々であったと
再確認しています。
もちろん最も時間を割かれているのが
就職活動であることは言わずもがな。
決まるまでは終わらない。
しかし早くやれば終わるものではない。
だらだらとフラストレーションと付き合う日々。
もちろん学んでいることも多々あります。
しかし機会費用を考えると
果たして就活から十分な学びを得ているかは甚だ疑問。
これが気にかかって満足に仲間と遊びに行けなかったりします。
ホントごめんって気もちになります。
さて、そのような就活も含め、
毎日が飛ぶようでした。
振り返ればきっと多くを得たと言えなくもないでしょう。
しかし、「今」をどう感じているかと言うと、
何かにずっと振り回されっぱなしな気持ち。
なにか大きな忘れ物をしている様な気持ち。
そして焦り。
どうやら気持ちのスパンが短くなっている様です。
気もちのスパンが短いから焦る。
そう結論づいたのが昨日今日。
「休日」を満喫してたどりついた答えです。
Jumped conclusionですが、納得がいきます。
話は飛びますが、
昔、大学をまだ選んでいた頃の自分のキーワードに「Sustainability」がありました。
「持続可能」です。
これを見失っていたために焦りが生まれていたんだと思いました。
ものごとを長いスパンでみると、何か違った見え方になります。
例えば仕事。
「大学3年生で就活シーズンだから選ぶ企業」
と、
「生きたい人生を実現できる企業」
さらには、
「後の世代に素敵な世の中を残せる企業」
とまで視野にするタイムスパンを長くする。
するともう「個である自分」の幸福なんて第一じゃなくなってきます。
現在社会を成り立たせている
第一産業、第二産業、第三産業
これらの取捨選択がすっきりしてきます。
後の世代が直面する危機とはなんだ?
ここを軸に見ます。
僕は大学でずっと食について勉強してきました。
今の世界は、大規模生産→貿易→大量消費、という流れで食料を回しています。
この構造が持つリスクって何だろう。
そう考えます。
「七代先の子孫を想い生きる」インディアンの目で現代社会を見つめる。
今の社会が、枯渇の危機にある石油を基に回っていることを意識する。
また、問題の主眼が「石油枯渇」であるために、その解決のための行為がもたらす長期的な環境破壊などの影響が軽視されている事実にも目を向ける。
北極の地下に油田を見つけたから、
そこを供給地にする手段を一生懸命考えているなんて、なんということだろう。
満足を得るための投資は惜しまないが、
損失を内包する問題は先送りにしているだけの社会を見つめる。
原発の問題だってそう。
ほとんどの物事がそうなのではないでしょうか。
そんな社会に一人のプレーヤーとして参加する機会がついにやってきたわけです。
そういう視点で就職先を見る。
企業が自分たちの宣伝に
「業界のリーディングカンパニーです!」なんて文面を掲げている。
リーディングカンパニーなのであれば、あなたの業界が抱える問題にどう向き合っていくのか、そのビジョンを示して欲しいです。
「安定した成長、新たな市場の開拓」
悪いことではありませんが、
その企業で働き続けて私が父親になった時、
退職しておじいちゃんになった時、
子や孫の目にその企業がどう映るのだろう。
そこで果たした私の役目をどう評価するだろう。
「一生懸命働いたから偉い」
なんてどこでも一緒でしょ。
会社を大きくしたから偉いわけでもないでしょう。
要は、どういった哲学を基に社会に参画するかを重要視したい。
Sustainabilityに話を戻します。
「持続可能性」という言葉が一時流行しました。
私もそれに魅力を感じた一人です。
言葉の意味は「ある事象を将来にわたって持続して行うことができるかどうか」と捉えられるでしょう。
しかし、100年前と今と、100年先とでは、環境がまったく異なります。ものごとは流動的です。
その気になれば何だって持続可能です。
車だってずっと走らせることができるでしょう。ガソリンの代わりに電力で走る。そのうち燃料電池を使って、水素と酸素だけで走る車も開発できるでしょう。
技術的な障壁を超えることは人間の得意とする分野だと思うし、そこに誇りを持ったり感動したりすることもあります。人はクリエイティブであるからこそ素晴らしいと思う。
しかし、本当の問題は、その車に乗って走ることに豊かさを感じる人々がいる一方、車の材料となる鉱物を採掘するために来る日も来る日も重労働を強いられる人々がいるということではないでしょうか。
つまり「持続可能性」とは技術的な課題のみクリアすればいいものではないということです。
車社会の持続には、車社会を構築しているコミュニティ全体を俯瞰して考えなくてはならない「持続可能性」があると思います。それは車社会という歯車が回り続ければいいというものではなくて、そのコミュニティ全体が気持よく歯車を回していけるか?を問うことも含まれるはずです。
また当然車社会とかみ合っている他の社会との関係も見つめながら、また地球規模の環境など、間接的な関わりをもつものとの付き合い方も含めて持続可能でなくてはいけないでしょう。
難しい話だと思います。
故に、私はシンプルさが必要だと思います。
さらに言えば、それは大規模で厳重なマネジメントによって制御された「持続可能性」では難しい様に思ったりもします。
ここも原発の話に絡んで考えると腑に落ちると思います。
そもそも原発は複雑であまりにも専門的な分野です。私には何もわからない。
原発が抱えるリスクは大きいでしょうが、そこは厳重なマネジメントでなんとかできるという主張で今まで回してきたものであるように思います。
頭の良い学者陣の頭の良いリスクヘッジ理論によって納得させられてきたものが今回の想定外の規模で起こった地震によって全て無意味になってしまったのが実情です。
つまり、複雑で大規模になればなるほど抱えるリスクは大きい様に思います。
そういったものごとの「持続可能性」は自ずと低いと思います。
長いタイムスパンでみると、そういった複雑な世界よりも、シンプルな世界に生きたいという欲求が生まれます。
それは現実と向き合うことからの逃走ではなくて、思考や生き方に柔軟性を持たせるということの重要性を感じた直感なのだと思います。
柔軟性と持続可能性の相性は良い様に思います。
今日はここまで。
こういった考えを背景に、今後のことを考えていこうと思います。
まぁゆっくり。
毎日やることがある私は恵まれていますが、
その大半は自発的な行為ではなく、
何かに追われてこなしてきた用事の数々であったと
再確認しています。
もちろん最も時間を割かれているのが
就職活動であることは言わずもがな。
決まるまでは終わらない。
しかし早くやれば終わるものではない。
だらだらとフラストレーションと付き合う日々。
もちろん学んでいることも多々あります。
しかし機会費用を考えると
果たして就活から十分な学びを得ているかは甚だ疑問。
これが気にかかって満足に仲間と遊びに行けなかったりします。
ホントごめんって気もちになります。
さて、そのような就活も含め、
毎日が飛ぶようでした。
振り返ればきっと多くを得たと言えなくもないでしょう。
しかし、「今」をどう感じているかと言うと、
何かにずっと振り回されっぱなしな気持ち。
なにか大きな忘れ物をしている様な気持ち。
そして焦り。
どうやら気持ちのスパンが短くなっている様です。
気もちのスパンが短いから焦る。
そう結論づいたのが昨日今日。
「休日」を満喫してたどりついた答えです。
Jumped conclusionですが、納得がいきます。
話は飛びますが、
昔、大学をまだ選んでいた頃の自分のキーワードに「Sustainability」がありました。
「持続可能」です。
これを見失っていたために焦りが生まれていたんだと思いました。
ものごとを長いスパンでみると、何か違った見え方になります。
例えば仕事。
「大学3年生で就活シーズンだから選ぶ企業」
と、
「生きたい人生を実現できる企業」
さらには、
「後の世代に素敵な世の中を残せる企業」
とまで視野にするタイムスパンを長くする。
するともう「個である自分」の幸福なんて第一じゃなくなってきます。
現在社会を成り立たせている
第一産業、第二産業、第三産業
これらの取捨選択がすっきりしてきます。
後の世代が直面する危機とはなんだ?
ここを軸に見ます。
僕は大学でずっと食について勉強してきました。
今の世界は、大規模生産→貿易→大量消費、という流れで食料を回しています。
この構造が持つリスクって何だろう。
そう考えます。
「七代先の子孫を想い生きる」インディアンの目で現代社会を見つめる。
今の社会が、枯渇の危機にある石油を基に回っていることを意識する。
また、問題の主眼が「石油枯渇」であるために、その解決のための行為がもたらす長期的な環境破壊などの影響が軽視されている事実にも目を向ける。
北極の地下に油田を見つけたから、
そこを供給地にする手段を一生懸命考えているなんて、なんということだろう。
満足を得るための投資は惜しまないが、
損失を内包する問題は先送りにしているだけの社会を見つめる。
原発の問題だってそう。
ほとんどの物事がそうなのではないでしょうか。
そんな社会に一人のプレーヤーとして参加する機会がついにやってきたわけです。
そういう視点で就職先を見る。
企業が自分たちの宣伝に
「業界のリーディングカンパニーです!」なんて文面を掲げている。
リーディングカンパニーなのであれば、あなたの業界が抱える問題にどう向き合っていくのか、そのビジョンを示して欲しいです。
「安定した成長、新たな市場の開拓」
悪いことではありませんが、
その企業で働き続けて私が父親になった時、
退職しておじいちゃんになった時、
子や孫の目にその企業がどう映るのだろう。
そこで果たした私の役目をどう評価するだろう。
「一生懸命働いたから偉い」
なんてどこでも一緒でしょ。
会社を大きくしたから偉いわけでもないでしょう。
要は、どういった哲学を基に社会に参画するかを重要視したい。
Sustainabilityに話を戻します。
「持続可能性」という言葉が一時流行しました。
私もそれに魅力を感じた一人です。
言葉の意味は「ある事象を将来にわたって持続して行うことができるかどうか」と捉えられるでしょう。
しかし、100年前と今と、100年先とでは、環境がまったく異なります。ものごとは流動的です。
その気になれば何だって持続可能です。
車だってずっと走らせることができるでしょう。ガソリンの代わりに電力で走る。そのうち燃料電池を使って、水素と酸素だけで走る車も開発できるでしょう。
技術的な障壁を超えることは人間の得意とする分野だと思うし、そこに誇りを持ったり感動したりすることもあります。人はクリエイティブであるからこそ素晴らしいと思う。
しかし、本当の問題は、その車に乗って走ることに豊かさを感じる人々がいる一方、車の材料となる鉱物を採掘するために来る日も来る日も重労働を強いられる人々がいるということではないでしょうか。
つまり「持続可能性」とは技術的な課題のみクリアすればいいものではないということです。
車社会の持続には、車社会を構築しているコミュニティ全体を俯瞰して考えなくてはならない「持続可能性」があると思います。それは車社会という歯車が回り続ければいいというものではなくて、そのコミュニティ全体が気持よく歯車を回していけるか?を問うことも含まれるはずです。
また当然車社会とかみ合っている他の社会との関係も見つめながら、また地球規模の環境など、間接的な関わりをもつものとの付き合い方も含めて持続可能でなくてはいけないでしょう。
難しい話だと思います。
故に、私はシンプルさが必要だと思います。
さらに言えば、それは大規模で厳重なマネジメントによって制御された「持続可能性」では難しい様に思ったりもします。
ここも原発の話に絡んで考えると腑に落ちると思います。
そもそも原発は複雑であまりにも専門的な分野です。私には何もわからない。
原発が抱えるリスクは大きいでしょうが、そこは厳重なマネジメントでなんとかできるという主張で今まで回してきたものであるように思います。
頭の良い学者陣の頭の良いリスクヘッジ理論によって納得させられてきたものが今回の想定外の規模で起こった地震によって全て無意味になってしまったのが実情です。
つまり、複雑で大規模になればなるほど抱えるリスクは大きい様に思います。
そういったものごとの「持続可能性」は自ずと低いと思います。
長いタイムスパンでみると、そういった複雑な世界よりも、シンプルな世界に生きたいという欲求が生まれます。
それは現実と向き合うことからの逃走ではなくて、思考や生き方に柔軟性を持たせるということの重要性を感じた直感なのだと思います。
柔軟性と持続可能性の相性は良い様に思います。
今日はここまで。
こういった考えを背景に、今後のことを考えていこうと思います。
まぁゆっくり。
