ある記憶――絶望という名の希望 2011年03月29日00:15
前回の救いがない日記、お読みいただいた方には大きなストレスを与えてしまったのではないでしょうか。
「絶望」ということばをあえて選んだのは意図があってのことですが、不安や不快感を与えてしまったであろうことに対して、お詫びしたいと思います。
今日は、いま思うことを、原発の問題からちょっとはなれて書いてみようかと思っています。

私が、思春期ゆえの先の見えない不安定な心の揺れからではなく、もう少し鎮まった「絶望」に沈殿したのは、20代前半でした。理由は、いまここでは触れませんが、ひとつではありませんでした。
そのとき出逢った人々、贈られたことば、流れていた音楽、目にした風景、…そうした記憶の断片は、いまも身体の隅々に潜んでいて、ふとした拍子に鮮やかによみがえってきます。たぶんそれらは、絶望のなかで、絶望する自分自身、そして希望を持ちたいとねがう自分自身と向き合う、小さなきっかけを与えてくれたもの/ことたちだったのでしょう。希望がないところには、絶望もありません。

私が最初に就職した会社のボスは、すでに故人ですが、著名なジャーナリストでした。私が入社した年に、彼は雑誌編集長として活躍していた現場を離れ、社長になりました。彼が長年魂と愛情とを惜しみなく注ぎ込んだその職場に、新人編集者として配属された私は、ほとんど依怙贔屓のようにあからさまにかわいがっていただきました。そしてすぐさま、彼は私の中に巣くう闇を見抜きました。

彼の心遣いは、たとえば廊下ですれ違いざまに投げかけられることば――ちゃんと飯食ってるか、昨日は残業遅かったのか、といった――にちりばめられていました。周りの誰にも気づかれない、私だけに届けられるテレパシーのようでした。最後の一線を超える前に、会いに来いよ、と。

一線を超えそうだ…と思った日、私は新人の分際で、社長室のソファに座っていました。彼は何も言わず机に向かい、いつも机上に用意されている硯に向かいました。ソファに戻ってくると、やおらその和紙を手渡して「あげるよ」と一言。そこには、アララギ派の代表的歌人・島木赤彦のうたが、墨痕鮮やかな達筆でしたためられていました。

友を見てはじめて心休まれり こらえてありし涙流るも

そのとき初めて、私は彼の前で泣きました。泣くということがどういうことなのかさえ、久しく忘れていたことに狼狽しながら。
彼は、いくつかの話をはじめました。たとえば、彼の親友である著名な小説家と彼自身の間に、ある夜起きた小さな出来事について。小説家の、黒い炎のような絶望。静かに向き合う彼。二人の間に訪れる、一見ありきたりに見える、奇跡。哀しくも、美しくも、痛ましくも、愛おしくもある、そんなエピソードでした。
ひとしきり話を終えた後、私の眼を覗き込みながら、彼はこんなことばを贈ってくれました。
「地獄の淵に行きなさい。そこに飛び込んでしまいたい、そう思いながら淵をじっと見つめて、そして、そこから戻ってきなさい」。

涙が流れ出た瞬間、助かった…と思ったのを、いまもはっきりと憶えています。
それは、自分の身体の内側に閉じ込められていた孤立した絶望が、外の世界とリンクした瞬間でした。どれだけの地獄の淵を、どれだけの闇深い夜を超えて、彼はいま目の前にいるのだろう。分かち持たれた絶望は、ゆっくりと、しかし確実に、絶望とは違う何かに変わっていきました。

ほどなく、私はその会社を辞めました。形式的な慰留はあちこちからありましたが、最後の最後まで眼に涙を溜めて引き止めてくれたのは、彼だけでした。決心が翻らないと知るや、最後に出す退職届の文例を自筆で書き、黙って手渡してくれたのも彼でした。彼の心遣いに対して、後ろ足で砂をかけるように、私は社を去りました。

数年後、くも膜下出血で倒れた彼と面会するために、私はある病院の一室にいました。病室の名札は、マスコミに情報が流れないよう実名が伏せられ、別名になっていました。病状は社内でも一部の人にしか知らされず、親交のある著名な人々ですらなかなか面会がかなわない中、偶然の幸運が重なり、私は彼に会うことができました。
病状は、深刻でした。再会した彼は、ことばを失っていました。意識も、どこまで以前の彼の記憶が残っているのか定かではない、と説明されました。麻痺が強く、私の手を握ったまま自力で離すことができず、秘書の女性が指をこじあけるようにして彼の手を引き離しました。
それでも、私の顔をひたと覗き込む眼は、変わっていませんでした。まっすぐ、そらさずに見つめる、強い眼差しだけは。

彼がどこまで以前の記憶をとどめているか、私を認識しているか、そんなことを探るのは、無益なことのように思われました。ああ、この人はきっと少年のころから、こんな風に人やものごとをじっと見つめてきたんだろうな、そう思いました。その眼差しは、剛胆にして繊細な、彼の生そのものでした。そのとき、私もまた、悲しむべき空間のなかに投げかけられた、一筋の光を感じていたのかもしれません。

それから2年ほどが過ぎた冬のある日、彼は静かに逝きました。盛大な葬儀がありました。生前からの希望によりフォーレのレクイエムが流れる青山葬儀場で、彼の大きな遺影に接して、私はもう一度泣きました。いっぱい。まっすぐに見つめる眼差しは、モノクロームの遺影の中でも健在でした。いま思い返すと、私が泣いたのは、そのときが最後かもしれません。

いま私は、やはり「絶望」を感じています。
でも、本当の絶望は、絶望とすら名づけられないもの。表明することも、泣くこともできないものだということを知る程度には、年齢と経験を重ねてきたつもりです。
誰かに分かち持たれることを狂おしく求める「絶望」は、たぶん「希望」への唯一の途であることを、私はほぼ確信しています。
そして、奇跡は意外としょっちゅう起きる、ただし意外な時に意外な方法で、という点もまた…。

差し当たりこれからも、できるだけこれまで通りの日常を送っていきたいと思っています。靴はちゃんと揃えるとか、洗いものを溜めないとか、ふだんの時間をていねいに過ごしていこう、そんな風に感じている今日このごろです。



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Yuko takahashiさんのmixi転載です。