最近発見した法則があるのだが、男だけの空間、女だけの空間、というのが、自分にとって全然面白くない。おそらく、お互い異性の目がないということで、油断をしているのだろうか、話が全然面白くないのである。

女同士の例は、自分以外全員女の子という状況で話をしている時によくわかる。
自分が(オープンでないにせよ)ゲイであり女の子に興味がないので、女の子は割と気軽にそういうところに自分を誘ってくる。しかし、大概そういう空間は面白くない。結局、自分がその女の子たちを恋愛対象にしていないと相手もわかっているから、そこはいわゆる「女だけの空間」になる。女同士の話は本当につまらない。
例外を挙げるとしたら、性に比較的奔放な女の子がいる場合である。
日本の場合、性に奔放な女は、同性から嫌われる可能性が高い。ゆえにそういう女性は大抵群れず、それゆえに話も面白い(女性の話のつまらなさは、「群れ」から追放されないようにする努力の結果だと思う)。

また、男同士の例は、銭湯で男同士の会話を聞いていると非常に顕著である。
男同士は割と性の話も自由で、割と直裁に話している人たちが多い。
しかし、直裁すぎるがゆえに、その話は大概面白くないどころか、男同士だからか、声も異様に大きかったりして、非常に不愉快である。

結局、面白い話というのは、直裁な表現と、相手を考慮した笑いの表現が相俟って、はじめて完成するものである。つまり、他者を全く意識しない表現も、他者を意識しすぎた遠慮がちな表現も、いずれもつまらないのである。

結局、自分が一般的に「ふつうの」異性愛者と仲良くなれないのは、その点にある気がする。

そこにはもう一つ理由があって、恋愛対象の相手の前と、そうでない相手の前で、決定的に態度が違う人は、信頼できないのである。もちろん、恋愛対象の相手の前で、少しいい恰好を見せようとするのは当たり前だし、それは悪いことではないと思う。しかし、恋愛対象にならない相手の前だからといって、相手を楽しませようとか、笑わせようとかいう「意図」を持たない人、すなわちそこに差別意識を強く持つ人は、私は苦手だ。

面白いことに、「色男」と呼ばれる類の人には、そういう相手に対するサービス精神が旺盛な人が多い。結局、誰の前でも態度が(極端には)変わらないということが、信頼に変わり、信頼が色恋に結び付くのだろう。


とにかく、自分は「男同士」「女同士」という同質的な空間にはいないようにしている。

ちなみにもっと面白いことに、恋愛感情がない同士のゲイの会話はむちゃくちゃおもしろい。
どうしてそうなのかというのは、これから考えてみたいと思う。