ゲイにとって、「家族」という概念は常に思念の中に付きまとう。
結婚して、子どもを産んで、新しく家族ができる、ということは、ゲイにはありえない(結婚したり、子どもを養子にもらうというだけなら、国によっては可能だけれども)。

家族というもの自体は、その定義にもよるけれども、ほとんどの社会で存在していると思われる。しかし、「家族像」というのは、近代的に創り出されたものだと言えるだろう。

「サザエさん」や「クレヨンしんちゃん」といった家族をテーマとした作品は、現実の家族をベースにして、家族の面白おかしい部分を描いている。その一方で、これらの作品およびテレビドラマやCMにおける家族をテーマにした作品は、「家族像」の創造を行ってきた。

「父親が仕事から家に帰ったら家族がいる喜び」
「休日は家族で出かけよう」
父の日、母の日、子どもの日、エトセトラ。

ここで注意しておかなければならないのは、「仕事から帰ったら家族がいる喜び」も、「休日に家族で出かける」喜びも、父の日や母の日にプレゼントをする/される喜びも、創造されたものではないということだ。自分だって両親や祖父母がいて、父親が家に帰ってくれば嬉しいし、休日に家族と出かけるのは楽しい。父の日も母の日も、イベントの一貫として親を喜ばせることも楽しい。

しかし、テレビやドラマや漫画が作り出す「創造」は、そのような「多数の人間」が楽しいとか幸せとか思うものを、「みんながそうである」という普遍性に変換させてしまう。

例を挙げればきりはないが、
・お父さん/お母さんがいない家庭はどうなるのか
・両親の仲が悪い家庭はどうなるのか
・休日に出かけるのが嫌いな両親の元に生まれた子どもはどうなるのか
・子ども自身が出かけることが嫌いだったらどうなのか
・そもそも家族がいない人たちはどうなのか
エトセトラ、エトセトラ。

いつか家族を持つことはないであろうゲイの自分としては、「家族は幸せである」という普遍性を与えようとする表象に対して、何とも言えないアンビバレントな感情を持っている。

「サザエさん」や「クレヨンしんちゃん」は一種のプロトタイプに過ぎないということは、意外とみんな頭ではわかっていると思う。でも、実際、そういう作られた「家族的」な枠から外れることは、逸脱とみなされることがあるかもしれない。

「家族」は絶対ではない。
「家族」は必ずしも善ではない。
それは、括弧内を、「集団」とか「国家」とか「世界」とか「人間」とかいう言葉に置き換えても同じことが言えるかもしれないけれど。