すでに米軍が沖縄に侵攻していた昭和20年5月のある日
二人の陸軍将校が、佐賀県の鳥栖小学校を突然訪ねてきた。
音楽教師の上野歌子先生(当時19歳)が応対すると、
二人は言った。
「自分たちは上野音楽学校(現・芸術大)ピアノ科出身の学徒出身兵です。
明日、特攻出撃することになりましたが、
学校を出て今日まで演奏会でピアノを弾く機会がありませんでした。
もちろん祖国のために命を捧げる事は本懐ですが、
今生の思い出に、思いきりピアノを弾いて二人だけの演奏会をやりたいのです。
今日は目達原の基地から、あちらこちらとピアノを求め歩いて、
やっとこの小学校にたどりつきましたが、どうぞお願いいたします。」
上野先生の胸中には灼きつく熱いものがこみあげてきた。
どうぞ兵隊さん、時間のある限り弾いて下さい。
私もここで聴かせていただきます。
静かな放課後の音楽教室で、
二人の少尉は、代わる代わるピアノに向ってベートーベンの「月光」などの曲を奏でた。
その一時間程の間に、どこから聞きつけたのか
二十人程の学童達がいつの間にか集ってきて一緒にピアノの演奏に耳を傾けた。
やがて帰隊の時刻も迫ってきた時
上野先生は二人に向って言った。
「有難うございました。
こんな素晴らしいピアノを何年ぶりかで聴かせていただきました。
この子供達もあなた方のお姿と一緒に永遠に
今日のピアノ演奏を忘れることはないでしょう。
明日は愈々ご出発とのことですが、心からご武運を祈らせていただきます。
お別れにこの子供達と『海行かば』を合唱させていただきます。」
教室一杯に静かに『海行かば』が流れた。
子供たちや先生は皆泣きながら歌った。
送られる二人の少尉もいつしか声をあわせて一緒に合唱していた。
帰り際、二人の少尉は
「この戦争はいつかは終わります。
しかし今自分達が死ななければ、
この国を君たちに残すことはできません」
といって、子供たちの頭をなで、
満足の微笑みをたたえながら去って行った。
翌日の午前、鳥栖小学校の上空に一機の飛行機が現われた
二度、三度と翼を大きく振りながら南の空へ飛び去っていきました