なんだか今年のGWは寒いですね。

家の中がうすら寒くて

暖房をいれてしまったよ。

 

 

 

とても久しぶりに

何か書きたくなったと思ったら、

真面目な記事になりました。

「家族」についてです。

 

 

 

私の育った原家族は、

他人の感情を思いやることが

できない人たちが多く、

(親も共感されて育てられてないから

子どもにもできなかったのでしょう。)

 

 

 

幼い頃に怖かったり、

傷ついたりする出来事があったときに

感情面でのフォローをしてくれる

大人が周囲にいませんでした。

 

 

 

そのかわり

傷口に塩を塗るような

意地悪やからかいは言われるのです。

 

 

 

あれはひどかったなと

既に思っていたけれど、

 

その当時の幼い自分が

感じていたであろう痛みが、

今まで認識していたよりも

さらに深い傷であったのだ

ということを

時を経るごとにしみじみ再認識します。

 

 

 

そんな家族関係だったので、

私は正直「家族」というものが

いいものだと思っていません。

 

 

 

ですが最近よく見ている

視聴者の思い出の場所を

自転車で訪ねるテレビ番組↓で、

NHKBSにっぽん縦断こころ旅

 

亡き母親に対して

あたたかい思慕のこもった

視聴者の手紙が読まれていて、

 

こんな情緒の交流が持てている

関係であるのなら

「家族」がいいものだという人が

いるというのはわかるな

と思いました。

 

 

 

そして同時に、

私にはどうしても

持てなかったものを見たので、

一抹の切なさも感じました。

 

(ちなみに夫のことは「仲間、味方」

だと思っている。

「家族」というのは、私にとって

「仲間、味方」の対立概念なので)

 

 

 

またこの手紙のような

人たちが持っている

親への好意的感覚も

私にはないものなので、

決定的な違いを感じました。

 

 

 

 

 

私は以前

タロット占いをするようになった

遠因でもあり、

「神は愛なり体験」と自分で呼んでいる

 

ちょっと不思議だけど、

生きていく上での礎となるような

その後の自分に

多大な影響があった体験をしました。

 

 

 

今の私がなぜ生きているか

(生きるのをやめないか)と問われれば、

それは神に体を与えられたからだと

答えるでしょう。

 

 

 

物理的な肉体は親由来ですが、

私の心に生きる活力を与えたのは、

この時の体験です。

 

 

くわしくはこちら↓

 

 

 

上記のテレビ番組の

手紙の人のような感覚を

家族間で持てた人は、

 

私に「神は愛なり体験」をさせてくれた

神父様のような人や

そのような体験自体に

出会わないかもしれないなと思いました。

 

なぜならそんなに切実に

必要にならないからです。

 

 

 

私は原家族から私の感情や

内面に関心を向けられたことが

なかったため、

 

気持ちに反応してくれること、

受け入れてもらうこと、

理解されること、

そのようなコミュニケーションに

とても飢えていました。

 

 

 

以後の私の人生観が大きく変わった

「神は愛なり体験」は、

情愛の面でこの上ない

切実な飢餓感があったから、

つまり求めていたからこそ出会えた

のかもしれません。

 

 

 

とはいえ家族関係がつらければ、

そのような体験に

必ず出会えるという再現性が

あるわけではありませんが。

 

 

 

長い人生を生きていくのに

あたたかでおだやかな情愛を

知らないで生きるのは、

なかなかにつらく

孤独なことだろうと思います。

 

 

 

ひるがえって、

子どもの頃〜20代前半頃の私は、

なんと孤独な世界で

安心感も持てず

人と断絶した感覚で

生きていたのだろうかと思います。

 

 

 

 

情愛に満ちた家族関係に恵まれるか、

そうではなく私のような

人智を超えたところから

そのような感覚を与えられるか、

どちらがいいとは言えませんが、

 

 

 

どのような人にも

どこかであたたかな情愛に

触れられる機会があるといいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

さとみ

 

 

 

 

 

 

 

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