日米アカデミー賞が発表され、今年もまた新たな映画年が始まる。
沈まぬ太陽は年末に観た。アバターも2Dながらチェックした。このアバターだが、初めから3Dで観るべきだったと後悔するところもある。3Dがブームであるということもあるが、3Dが持つ良い性質を個人が見抜かなければならないと思うからだ。
今更3Dがすごいとかいわなくても、すでに各方面の映像は3Dの魅力を最大限に利用するべく、製作体制そのものを改革する道程を歩み始めているだろう。少なくとも、将来、確実に自分がメガホンをとる映像も3Dになってくる。かなり現実的な話だ。
ついでに、この間ニュースゼロで、北野武が国際宇宙ステーションに滞在中の野口飛行士と対談をしていたが、その中で世界の北野氏は、村山アナにご自身が宇宙で映画を撮るとしたらどのような作品を構想しますか?といった具合の質問を受けて、少し考えて、宇宙で長年生活してきた新人類と従来通り地球上で生活している人類のあらゆる価値観に根本的な相違が生じ、やがて両者間の戦争が勃発するというのをやってみたいねという風なことを微笑みながら言っていた。
宇宙で映画撮れるなんて話ふっかけられたら、やっぱりそうなるよね、と案の定・・・とそのときは思ったが、実はこの話はかなり深いところを突いていて、実際そんな映画を撮ることになったら、確実に今の世界では物語はSFになる。いまだ価値観が大きく変わるほどの長期間、宇宙空間に滞在や生活をした人間はいないからだ。
現実的に今そういう映画を撮ろうと思ったら、なんだろう、生まれたときから宇宙に存在する、つまり宇宙で生まれて宇宙で死ぬ人類がいて、そういう環境と状況が何世代に渡って継続し、あるとき彼らの子孫が地球に住み続ける旧人類に対してなんらかのきっかけでなんらかの敵対心を抱くに至る・・・というとてつもなくスケールのでかい想像力でもって物語を設計する。そのとき作品に込められるテーマは、地球上で繰り広げられる戦争や環境、人道的問題をすくい上げたある種身近な問題提起の意味を持つだろう。
だが、もし、宇宙空間における映画製作や映像製作より先駆けて、これまたなんかの理由で人類の宇宙空間や他惑星への移住が始まったとしたらどうだろう。北野氏の構想は完全な空想上のストーリーに現実的な諸問題を加味したメッセージ映画というイメージを超越し、一気に現実的になってくるのではないか。つまり、宇宙空間で映像を作ることを考える人間がでてくる前に、実質映画の被写体に成りうる新人類が存在している未来世界、が想像されるわけである。そうなった場合、北野氏の構想はフィクションからドキュメンタリーに転じるだろうか。
宇宙空間における映像製作も、今世紀中には広く行われることになるだろうと思う。だが、いつでもその時代に生きる人間のことをないがしろにしてはならない。当然のことだが、製作者として大切なことであると思うとともに、SFがSFでなくなる境界を想像し、映像が世界に対してできる行為と世界が映像に対して与える影響は表裏一体であり、時として二律背反の関係にあるという事実を肉感的に知らないとこの先変化も適応も改革も保存もできないだろう。
思えば、『アバター』は、異空間にいきなり立たされた一人の男が異民族をまとめ成長していくという物語だが、米軍への批判色が強いという理由で米軍上層部が上映に反対的だったらしい。どれだけ革新的で圧倒的な世界観があっても、キャメロンが込めたのは、当本人からバッシンクを受けるほどの強いメッセージ性だったのかもしれない。
世界観が壮大且つ繊細であるという評判と裏腹に、キャラクター造形の甘さを批判的に見る者もいるようだが、現実世界の世相を作品に込めたとき、SFというエッジの効いた部分で人間心理や存在価値を描こうとしたら、正直難しいとも思う。今製作者の苦悩を思う前に必要だと思うのは、そういうことではなくSF映画に限って言えば、SF的な描写の裏に力を持って描かれた、時に不安定で危なっかしい現代人を見つめる目を見いだすよう努める観客や視聴者の意識だろう。
そんな中、『アバター』を下した形の『ハートロッカー』を観た。『ハートロッカー』は、そういう意味では、ドキュメンタリーで、今のイラクとアメリカ軍の実像を通して戦争の個人レベルでの中毒性が皮肉を交えて描かれている。
ラストシーンで、ジェームズがスーパーマーケットで奥さんにシリアルを取ってきてと言われて、棚一面に並ぶ大量多種のシリアルを前に呆然と立ち尽くす様は、800個以上の爆弾を解体してきた命知らずの男がシリアルを前にして何もできず思考停止状態になるのか!と皮肉な描写にかなり胸を奪われた。あのジェレミー・レナーのとぼけ顔は、一瞬コメディ映画にトリップしたようなトランス状態を生み、主演男優賞も納得。ラストカットで爆弾に向かって一人歩みを進めるジェームズのLSは爽快に感じてしまう出来上がりで、それが逆に作品の反戦争中毒?なるメッセージを無意識に喚起し、余韻大なベストシーンになっていた。
米国アカデミー会員は、比喩的なメッセージSF+3Dより、現世界に直結した骨太なアイロニカル志向を優位としたのだろう。
映像の情報量にまだ人はついていけていない。そんな中で、自分が得た情報を元に映像を紡ぎ、世界に発信する。世界は映像を観る者と映像を作る者の連動と融合と闘いで回っている。少なくとも、新人類と旧人類の対立を危惧するよりも早く、映像業界に地殻変動は訪れるはずだ。
沈まぬ太陽は年末に観た。アバターも2Dながらチェックした。このアバターだが、初めから3Dで観るべきだったと後悔するところもある。3Dがブームであるということもあるが、3Dが持つ良い性質を個人が見抜かなければならないと思うからだ。
今更3Dがすごいとかいわなくても、すでに各方面の映像は3Dの魅力を最大限に利用するべく、製作体制そのものを改革する道程を歩み始めているだろう。少なくとも、将来、確実に自分がメガホンをとる映像も3Dになってくる。かなり現実的な話だ。
ついでに、この間ニュースゼロで、北野武が国際宇宙ステーションに滞在中の野口飛行士と対談をしていたが、その中で世界の北野氏は、村山アナにご自身が宇宙で映画を撮るとしたらどのような作品を構想しますか?といった具合の質問を受けて、少し考えて、宇宙で長年生活してきた新人類と従来通り地球上で生活している人類のあらゆる価値観に根本的な相違が生じ、やがて両者間の戦争が勃発するというのをやってみたいねという風なことを微笑みながら言っていた。
宇宙で映画撮れるなんて話ふっかけられたら、やっぱりそうなるよね、と案の定・・・とそのときは思ったが、実はこの話はかなり深いところを突いていて、実際そんな映画を撮ることになったら、確実に今の世界では物語はSFになる。いまだ価値観が大きく変わるほどの長期間、宇宙空間に滞在や生活をした人間はいないからだ。
現実的に今そういう映画を撮ろうと思ったら、なんだろう、生まれたときから宇宙に存在する、つまり宇宙で生まれて宇宙で死ぬ人類がいて、そういう環境と状況が何世代に渡って継続し、あるとき彼らの子孫が地球に住み続ける旧人類に対してなんらかのきっかけでなんらかの敵対心を抱くに至る・・・というとてつもなくスケールのでかい想像力でもって物語を設計する。そのとき作品に込められるテーマは、地球上で繰り広げられる戦争や環境、人道的問題をすくい上げたある種身近な問題提起の意味を持つだろう。
だが、もし、宇宙空間における映画製作や映像製作より先駆けて、これまたなんかの理由で人類の宇宙空間や他惑星への移住が始まったとしたらどうだろう。北野氏の構想は完全な空想上のストーリーに現実的な諸問題を加味したメッセージ映画というイメージを超越し、一気に現実的になってくるのではないか。つまり、宇宙空間で映像を作ることを考える人間がでてくる前に、実質映画の被写体に成りうる新人類が存在している未来世界、が想像されるわけである。そうなった場合、北野氏の構想はフィクションからドキュメンタリーに転じるだろうか。
宇宙空間における映像製作も、今世紀中には広く行われることになるだろうと思う。だが、いつでもその時代に生きる人間のことをないがしろにしてはならない。当然のことだが、製作者として大切なことであると思うとともに、SFがSFでなくなる境界を想像し、映像が世界に対してできる行為と世界が映像に対して与える影響は表裏一体であり、時として二律背反の関係にあるという事実を肉感的に知らないとこの先変化も適応も改革も保存もできないだろう。
思えば、『アバター』は、異空間にいきなり立たされた一人の男が異民族をまとめ成長していくという物語だが、米軍への批判色が強いという理由で米軍上層部が上映に反対的だったらしい。どれだけ革新的で圧倒的な世界観があっても、キャメロンが込めたのは、当本人からバッシンクを受けるほどの強いメッセージ性だったのかもしれない。
世界観が壮大且つ繊細であるという評判と裏腹に、キャラクター造形の甘さを批判的に見る者もいるようだが、現実世界の世相を作品に込めたとき、SFというエッジの効いた部分で人間心理や存在価値を描こうとしたら、正直難しいとも思う。今製作者の苦悩を思う前に必要だと思うのは、そういうことではなくSF映画に限って言えば、SF的な描写の裏に力を持って描かれた、時に不安定で危なっかしい現代人を見つめる目を見いだすよう努める観客や視聴者の意識だろう。
そんな中、『アバター』を下した形の『ハートロッカー』を観た。『ハートロッカー』は、そういう意味では、ドキュメンタリーで、今のイラクとアメリカ軍の実像を通して戦争の個人レベルでの中毒性が皮肉を交えて描かれている。
ラストシーンで、ジェームズがスーパーマーケットで奥さんにシリアルを取ってきてと言われて、棚一面に並ぶ大量多種のシリアルを前に呆然と立ち尽くす様は、800個以上の爆弾を解体してきた命知らずの男がシリアルを前にして何もできず思考停止状態になるのか!と皮肉な描写にかなり胸を奪われた。あのジェレミー・レナーのとぼけ顔は、一瞬コメディ映画にトリップしたようなトランス状態を生み、主演男優賞も納得。ラストカットで爆弾に向かって一人歩みを進めるジェームズのLSは爽快に感じてしまう出来上がりで、それが逆に作品の反戦争中毒?なるメッセージを無意識に喚起し、余韻大なベストシーンになっていた。
米国アカデミー会員は、比喩的なメッセージSF+3Dより、現世界に直結した骨太なアイロニカル志向を優位としたのだろう。
映像の情報量にまだ人はついていけていない。そんな中で、自分が得た情報を元に映像を紡ぎ、世界に発信する。世界は映像を観る者と映像を作る者の連動と融合と闘いで回っている。少なくとも、新人類と旧人類の対立を危惧するよりも早く、映像業界に地殻変動は訪れるはずだ。