独り言でも話しましょうか。 | Twilight Capriccio

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※絶賛改装中

自重しない場所へ、ようこそ。
一次・二次創作文章やイラスト、プレイ日記もやります。見るのは自己責任で。

無限に時間があったあのころには戻れないけれど
今日も元気にやってます。

すべてのきっかけは いつだって日常に

衝撃的でいたたまれない事件が起きたのはもう全国に知れ渡ってることなんだけど。そんな事件を見ていて自分は画面の前で同情することくらいしかできないのがもどかしいと思う。

そこで起こったことは当事者や被害者以外には他人事に見えてしまうものにすぎなくて、物騒ねぇ、とか気をつけなくちゃねぇ、とか、なんでこんな世の中になったんだろうね、なんていう言葉で片付けられてしまうのが人間の社会なんだ、って。いろいろな報道がされていく中でいつしかその事件はかき消されるように薄れていって、そういえばあんな怖い事件もあったわねぇ、なんて片付けられるようになってしまうんだよね。今回の事件も確かにとても重大な事件だと思う。でも、この国ではもっと凶悪な犯罪っていうものが起きていたりもする。

けれどそんな事件を今の私たちはいったいいくつ覚えているのだろう、いくつ瞬時に上げることができるのだろう。

今日の刑法の授業で教授が”死刑制度が自殺できない人にそれを与える一つの手段として成り立ちかねない”ということを話していて、自分で死ねねいから国家に手を下してもらおうという思想が少なからずあるのではないか、みたいな話をしてて、なんだか複雑だった。だってこれから裁判員制度が始まれば、必ずしもそうなるとは言い切れないけど極刑や重い刑罰は増えるでしょう?感情に流されてしまう世論が反映してしまうのだもの。・・・世論は死刑を望むかもしれない。死刑を望んで犯罪を犯す人がいるかもしれない。いったいどうしてそこに至ってしまったのか、別の人間だから私には理解できないんだけど、”誰でもよかった”っていう理不尽な理由を持つ人が出てきてるんだもの。(その理由だけは私は何があっても許したり、認めたりはしたくないけど。)でも、そんな中で世論を受けて死刑が増える結果になってしまう、っていうのは間違っていると思う。そんな凶悪犯罪を起こした人こそ、生きてその罪を償わなければいけないんじゃないか、って。生きて、その人がきちんと天寿を全うするまで罪を背負って生きていかなければいけないんじゃないかって。

ここからは紫葵らしい話が入ってくるけど・・・。

「罪・・・・・って、償えるのか?」っていうセリフがある。それに答えた人は「試したことはない」と答えました。んでもって、「教えを守っていればいつか償える」っていうセリフがあるけれど、そのセリフに答えた人は「罪が消えることなど、ありますか?」と彼に言葉を返してる。

長い間、人生の8割くらいをあの作品と過ごしてるけど、それに触れる中でよく”罪”だとか”命”について考えさせられるんだよね。最近よく考えるようになったのは罪で、上のセリフが代表的なんだけど、それを償うことができるのか、消えるものであるのか、そもそもなぜそれが生まれるようになったのか、そしてそれは誰かに許してもらえるものなのか、許されるものなのか、許していいのか、周りはそれを背負った人とどう接すればいいのか、その人はどうやって生きていくことがその人にとっていいことなのか。・・・・・なんて。

答えなんてでてこない。そんな簡単に出るものじゃないと思うし、人によってその考え方は違うわけで、出てくる答えも別々なわけで。悶々と考えるだけで終わるていうことが常々なんですけどね。




・・・・・とまぁ、そんな独り言。

なんだかシリアスなものを書かないと何となく気が済まなかった。

いつもみたいなあのノリだけで書いちゃいけないな、って。気がついたら手が動いてたみたいな。

たまに出てきます。きっとそのときはおんなじタイトルなので付き合ってられない方はスルーの方向でよろしくどうぞ。たぶん、その日の更新が独りごとだけ、っていうことはないと思うので。



嘆くわけでもない、悲観するわけでもないけれど。

あの事実を見て思った、ただの独り言。