2 台湾人が日本の近代史を肯定的に見る理由



 成功しつつあった日本の台湾経営  

台湾人は何故日本の近代史を肯定的に見るのでしょうか。理由の一つは、指導者に人を得て、日本の台湾経営が比較的順調に行われていたこと、台湾住民が極めて順応性に富んでおり、協力して成果を上げていたことが考えられます。

 私たち戦後の日本人は、日本の台湾統治の成果を知りません。私も僅か十年前までは、全く知りませんでした。しかし台湾各地を旅行すると、我々の先輩たちの残した目を見張るような素晴らしい業績にたびたび出会います。特筆すべきは、台湾経営の基礎を創った第六代民生長官後藤新平の事績です。後藤長官の下には、各分野に一騎当千の人材が揃い、極めて積極的な国土経営が台湾で展開されました。

後藤新平には、明治維新の精神が脈々と流れており、新興国家日本の世界に向けたショウインドウとして、台湾経営を立派に行うという意気込みがありました。後藤新平の台湾経営は、今日で考えても極めて道理に適い先進的なものでした。彼がまず排除したのは、上から押さえつける官僚的なやり方でした。また官僚の腐敗行為も、徹底的に排除しました。汚職の疑いのある者をすべて日本本土へ送り返し、その数は一千名にも達しました。日本本土で食えないから台湾でひと稼ぎしようと出かけた人間は、みなこの網にかかり、送り返されてしまいました。

 後藤新平は、台湾経営に当たって、法律や規則による強制的な執行を避け、現地の実情に即した住民に受け入れられる方法をとりました。彼はその方法を、生物学的アプローチと言っていました。それは人間社会を、感情のある生き物として認識することから出発していました。好んで言ったのは、タイの目とヒラメの目の話です。

 

タイの目とヒラメの目

「ヒラメの目をタイの目に変えることは出来ない。タイの目はちゃんと両側についているが、ヒラメの目は頭の一方についている。ヒラメの目を、タイの目のように両方に付け替えることは出来ない。ヒラメの目が一方に二つついているのは、生物学的に必要だからである」。彼の言わんとするところは、実態をよく知るということ、実態に即したやり方でなければ、植民地経営は決してうまく行かないということでした。

 そのために、後藤は調査の重要性を主張し、台湾で土地調査、風俗調査を含む多くの大調査を行いました。まず優秀な人材を採用、緻密な調査の上に現地に即した計画を立てさせ、彼らに大幅な権限を与えて、台湾のためになる施策を実行したのです。

 後藤が最も重点を置いたのは、教育と環境衛生の改善でした。当時、台湾の教育と衛生状態は、日本本土の大都市の平均的な状況をはるかに凌ぐものでした。当時後藤の下には、新渡戸稲造など日本を代表する人材がたくさん集まっていました。八田与一氏の行った世紀の大事業、嘉南大圳の建設もその延長線上の事業でした。

 もちろん、こうした事業は現地の人たちの協力なくして出来ないことですが、順応性に富む台湾人はこれに積極的に協力し、成果をあげたのだと考えられます。

 

台湾を略奪の対象と考えた中国国民党

 台湾人が日本の近代史を評価肯定するようになった、もう一つの要因に、中国国民党による台湾統治の失敗があります。終戦のとき、私は十歳前後でしたが、台湾少年工の人たちが敗戦のショックから立ち直り、程なくして気持ちをたいへん高揚させていたのを憶えています。それは台湾が中華民国に属することになり、中華民国が戦勝国であるという事実に由来していました。小学校へ通う道すがら、「お前たちは敗戦国民だが、俺たちは戦勝国だ」ということを何回も聞かされました。

 ですから、私には彼らの帰国が、意気揚々としたものに見えました。しかし、祖国中国への光栄ある復帰を夢みて、台湾へ帰国した人たちを待っていたのは、予想外の事態でした。終戦とともに台湾へ乗り込んできた中国の兵隊と役人、それは「自由中国」という表現とは全く異質のものでした。すでに近代化を遂げていた台湾において、全く文明の恩典に浴したことのない中国兵が繰り広げた数々の奇行は、台湾人の嘲笑の的でした。例えば、水道の蛇口を壁にはめ込むだけで水が出ると思っていたり、デパートのエレべーターに感心して、一日中眺めていたりした行動です。しかし最初それらの奇行をあざ笑っていた台湾人は、台湾を略奪の対象としか考えていない中国人の罠に、いつの間にかはまっていたことに気づくのです。台湾は全くの無法地帯と化してしまいました。



 台湾人の職場を奪った中国人   

戦前は台北高等学校の教師で、戦後アメリカ領事館の駐在武官となったジョージ・カーが、その著「裏切られた台湾」において、次のように述べています。

 「日本人の退いた7千4百の警官のポストを満たすのに、陳儀長官は経験のある台湾人を昇格させるのではなく、経験の全然ない中国人を採用した。何千という新人が、名簿に登録された。すでに台湾統治の要職にある中国人の、係累に属する人間であった。ほとんどの警察官が、日本語はもちろん台湾語も話せなかった。またそのうちの何百人は、まだ十代の少年で、うまみのある仕事を求めるだけの若いあんちゃん連中だった。彼らは、公式の給与支給額より、賄賂や役得の見込みに関心をもっていた。日本人が辞め。空席になった警察の全ての職務がこうして満たされると、国民党政府は、大陸からやって来る中国人のため、さらに台湾人の首切りを開始した」。

 教育現場でも、同様なことが起こっていました。「日本人教員が去って、空席になったポストは、大陸から来た下層民で全て埋められた。彼らは取るに足らない存在だったので、汚職の出来るような職務にはつけなかった。当時すべての靴職人が台湾に逃げ込んだため、上海では靴の修理が出来なかった。そうした連中が教職についた」。

 状況を見かねて、台南市のある有名な医師が市議会に立候補し、中国人市長に次のような質問をしました。「私は市長のような福州出身の中国人を、三つの理由から尊敬しています。それは、貴方方のはさみを使いこなす能力、ナイフを使いこなす能力、バリカンを使いこなす能力です。(これは大多数の福州人が、洋服屋、コック、床屋であることを意味しています)。しかし私には、市長がなぜ現場の台湾人労働者を首にしてまで、役所にこれほど多くの福州人を採用するのか、全く理解できません」と。

 市議会は大騒ぎのうちに散会になった。市長が面子を失った話は、すぐ街中に広がり、暴徒化した福州からの移住者は、その医師を付け狙いはじめた。医師は間もなく、虐殺された。」

 

228事件の発生と監獄島と化した台湾  

中国人のこうした横暴に対し、台湾人の怒りは沸騰点に達していました。ジョージ、カーは更に書いています。「1947年2月27日夜、台北の公園で幼児二人を抱えた戦争未亡人がやみタバコを売っていた。それを見た中国人専売局員は、タバコだけでなく、彼女のなけなしのつり銭まで没収してしまった。抗議した群集の一人が殺された。

 翌2月28日、この事件に抗議した民衆に当局が銃撃を加えたため、台湾民衆の積もりに積もっていた不満は爆発、台北放送局を占拠した一隊は、全島民に蜂起を呼びかけた。各地で台湾人は勝利を収め、中国人を台湾から叩き出す寸前まで行った。しかし台湾人は、「2・28事件処理委員会」を設置し、むしろ政治改革を要求する道を選んだ。

 陳儀台湾省長官は、話合いの態度を見せつつ、密かに大陸の中央政府へ鎮圧軍の派兵を要請していた。3月8日、基隆に上陸した重装備の中国軍は、台湾全島で大虐殺を開始した。処理委員会に列したエリートがまず虐殺の対象になった。政府発表で2万8千人、実際には5万人以上が殺された。この事件を機に、台湾は長い戒厳令下の冬の時代に入った」。

 そして、この事件や台湾の冬の時代については、語ることさえ、長い間禁じられていました。ようやくこれが語られるようになったのは、李登輝時代になってからです。抑圧の時代を、辛苦のなかで生き抜いた柯旗化さんは、「台湾監獄島」で次のように述べています。   

「翌日も特務たちは休みなしに訊問を続けた。私はもう数十時間も寝ていなかったので意識が朦朧として天井がぐるぐる回り、地面もぐるぐる回って見えた。反応が鈍くなり、特務の声がとても遠く聞こえ、私の答えもとぎれがちであった。特務は私に、口述するからそのとおりに自白書を書けと命じて、口述を始めた。

 「私は緑島の感訓から帰って来た後、政府に対して怨恨を抱き、全島各地に組織を創って反乱を起こそうと考えていた」と。

 特務がそこまでいった時、私はハッとしてペンを置き、「私はそんなことをしていないから書けない」と言った。とたんに特務の一人が棍棒を手にとり、私の背中へ力任せに振り下ろした。激痛に、私は思わずうなった。棍棒は、何回も続けて振り下ろされた。」

清朝時代を知る台湾の年配者が、新しい中国統治に期待する若者に対し、「新しい者が来てみて、旧い者のよさがわかる」と言ったことが、不幸にも的中してしまったのです。                                  



つづく







                         by westwolf