今年も本寺地区地域づくり推進協議会の皆さまの主催による「骨寺村荘園中尊寺米納め」が開催され、中尊寺へ荘園米のご奉納を頂きました。
今年で17回目となる米納め式を継続してこられた本寺地区地域づくり推進協議会をはじめとする多くの方々に心より感謝申し上げます。
奉納いただいた荘園米は、正月一日から八日まで行われる中尊寺修正会において山内の諸堂に供えられます。法要の終わりに道場いっぱいに骨寺村の米が撒かれて人々の心を浄め、こころの中の諍いを鎮め、世の平和と人々の幸せが祈願されるのです。
浄土とは「浄仏国土(仏国土を浄める)」、つまり「仏国土」という目に見えるものと、「浄める」という目に見えない営みの循環の中にあります。
法華経に「我此土安穏(我が此の土は安穏なり)」とあるように、此土(この世界)にこそ浄土があり、此土を浄めるという行いこそが大乗仏教の浄土です。
田地という目に見えるもの、そしてそれを耕すという目に見えない営みが循環してお米や作物を育み、仏前に供えられて世界の平和と人々の幸せが祈願されるのです。
それこそが浄土であり、遺跡の中に宗教的な遺構や遺物が発見されれば浄土を表すとか、何らかの宗教施設に軸線が向いていれば浄土をあらわすことになるというこではないのです。
「骨寺荘園遺跡にはすばらしい価値がある。ただ世界遺産のコンセプトに合わなかった。」というようないわれ方もしました。
しかし、本当にそうでしょうか。「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」と名づけられた世界遺産のコンセプトとは何なのか。
平泉の浄土とは何なのか。
米は食糧であり、農業は第一次産業であって浄土とは別のもの、宗教とは関係ないという近代的な考え方とは違い、中世の平泉では、農地を耕すことが、仏国土を浄めることへとつながっていたのです。農業と宗教的祈りの循環の中に人々の生活があったといえるのです。浄土(浄仏国土)とは有形のものと無形の営みの境界を越えて存在するのです。
稲穂を神の依り代とし、しめ縄をなって神仏に供える日本人の宗教観を骨寺荘園遺跡は形として現代に証明している希有なる存在といえるのではないでしょうか。
私たちは世界遺産に適合させるために本来持っている遺跡の価値や意味づけを歪めることを戒め、まず平泉の浄土とは何か、思いを致さなければなりません。
骨寺村-本寺地区は世界遺産のコンセプトに合わなかったのではない、奥州藤原氏の目指した平泉の浄土とは何か、平泉と骨寺村の辿った浄仏国土の営みとはなにか、それを照らしてゆく道半ばに過ぎないのだと思います。
建立900年を迎える金色堂も有形の堂宇と無形の光の循環と交流によって、藤原清衡公の切願した浄土(浄仏国土)が表現されているのです。
「平泉の浄土」の本当の姿が照らされるごとに、価値あるものは本来の姿で光輝いてゆくはずです。
これからも骨寺村荘園遺跡というすばらしい場所で行われる様々な取り組みが、豊かな実りをもたらし、多くの方々に幸せをもたらしてゆくことを心より祈念いたします。