今日4月22日、中尊寺光勝院で西行法師追善法要が営まれました。例年は法要に引き続き、「西行祭短歌大会」が開催されますが、今年はコロナ禍の影響により9月30日に延期となりました。 

 

 

 西行は(うお)()(りゅう)(ふじ)(わら)()出身で、もとは平清盛(たいらのきよもり)などと同じく()()(いん)北面(ほくめん)武士(ぶし)として(きん)()していました。魚名流藤原氏の子孫には(たいらの)(まさ)(かど)(らん)を鎮圧した藤原秀郷(ひでさと)がおり、秀郷流の奥州藤原氏とは遠縁に当たります。

 

 西行は23才で出家しますが、平泉には20代後半と、69才の頃の2度訪れています。最初の旅は(のう)(いん)(ほう)()(うた)(まくら)を訪ねて、2度目は東大寺大仏再興の勧進(かんじん)の旅でした。2回目の旅では途中、鎌倉の(みなもとの)(より)(とも)にも面会しています。折しも全国に(よし)(つね)(つい)()の令が出されているさなかのことです。()(どう)(きゅう)()の作法について語り明かし、頼朝が西行に下賜した「銀造の猫」を門前の子供に与えて奥州に出立したと『()(づま)(かがみ)(注1)は伝えています。

 藤原秀衡公は東大寺大仏滅金料としてすでに5000両の金を貢進していました。これは頼朝の5倍に当たる量でした。(注2) そして西行の勧進に応えてさらに450両を寄進したのです。東国の惣官(そうかん)として奥州の(こう)()(こう)(きん)を鎌倉経由で京都に伝進する約束を秀衡公に取り付けていた頼朝はこれを京都に伝進します。(注3)

 

 西行が平泉を()んだ歌がいくつか残されています。

 

ききもせず たはしね山の 桜花 

        吉野の外に かかるべしとは

 

とりわきて 心も凍みて 冴えぞわたる

        衣川見に 来たる今日しも 

 

 奥州藤原氏が鎌倉軍の侵攻によって滅亡した翌年に当たる文治6年(1190)2月16日、西行は河内国の弘川寺で息を引き取りました。

 

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

 

 自ら望んだ桜花の季節に。

 

 

 

 平泉の桜は散り際で地面は薄墨一色の今日でした。

 

 

1.『吾妻鏡』文治2年8月15日・同16日条

2.『玉葉』元暦元年6月23日条

3.『吾妻鏡』文治2年10月1日・同3日条