基衡公は中尊寺の南西に「吾朝無双」(注1)と謳われた壮大な毛越寺伽藍を建立しました。金・銀や紫檀・赤木等を鏤め、万宝を尽くして衆色の交じり合う金堂・円隆寺には丈六の薬師如来及び十二神将を安置しました。扁額は関白・藤原忠通卿の染筆によるもので、堂内には参議・藤原教長卿による色紙形が飾られていたといいます。金堂を中心に講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵等で園地伽藍が構成され、その他吉祥堂・千手堂、鎮守惣社金峯山、さらには基衡公の妻が建立した観自在王院が軒を連ねていました。その規模は堂塔40あまり、禅房(僧侶の宿坊)500あまりに及び、中尊寺を凌ぐものでした。
「平泉諸寺参詣曼荼羅図」に描かれる毛越寺(部分)
『吾妻鏡』に「果福父に軼ぎ、両国を管領することまた三十三年の後、夭亡す」(注2)と述べられ、清衡公にも勝る果報によって権勢を築いたことが窺えますが、「夭亡」と記されるとおり、丈六薬師如来を本尊とし四壁・三面扉に法華経の大意を図絵した壮麗な嘉勝寺伽藍建立の功半ばで亡くなり、伽藍の完成は三代秀衡公へと引き継がれました。
円隆寺の本尊・薬師如来造立にあたっては仏師雲慶に対して「金百両・鷲羽百尻・水豹(アザラシ)の皮六十余枚・安達絹千疋・希婦細布二千端・糠部駿馬五十疋・白布三千端・信夫毛地摺千端等」を始め、山海の珍物を運ぶ行列が3年間絶えなかったといいます。これと別に船3艘分の生美絹が送られると、喜んだ仏師は「練絹があればなおよかった」と、つい戯言を発したといいます。基衡公は驚き悔やみ、あらためて船3艘分の練絹を送り遣わしたとのエピソードも伝えられています。(注3)
またいずれの堂宇のものか定かではありませんが、基衡公が「御室(仁和寺)」の伝手によって忠通卿に扁額の染筆を依頼したところ、基衡公が依頼主と知ると家人に扁額を取り戻させたという逸話も残されています。(注4)清衡公の時代から摂関家へ上馬(すぐれた馬)を献上して関係を築いてきた奥州藤原氏ですがまだまだ陸奥人へ対する都の偏見は強かったのです。
中尊寺を造立した初代清衡公の「紺紙金銀字交書一切経」に引き続き、基衡公もまた亡父清衡公の追善菩提のため、一日のうちに法華経一部八巻を写経し生涯のうちに千部を納経する「法華経千部一日経」を発願しました。写経の善行は3代秀衡公による「紺紙金字一切経」へと受け継がれ、「写経の寺・中尊寺」の寺風が築かれてゆきました。
また中尊寺山内をはじめ、東北地方の「奥州藤原文化圏」に多く残る、すっきりとした端正な顔立ちの諸仏は基衡公から秀衡公の初期に成立した「奥州藤原形式」ともいえるスタイルではないかとの説も提示されています。(注5)
基衡公による岩手県奥州市黒石寺の日光・月光菩薩像の寄進、山形県慈恩寺の修造伝説等からも、この時代に平泉文化が東北地方に広められていったことが想像されます。
中央貴族とも積極的に渉り合い、毛越寺伽藍を初めとする造寺造仏、法華経千部の写経など「平泉」の政経・文化の発展に邁進した基衡公。釈迦如来を本尊とする中尊寺を建立し、法華経による普皆平等の教えによって過去の冤霊を等しく供養し鎮護国家を祈念した父・清衡公を継ぎ、薬師如来を本尊とし現世の様々な苦悩を抜済して万民豊楽を祈る毛越寺を建立しました。子の秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立し未来世の浄土往生を願いました。こうして平泉は過去・現在・未来の三世にわたる浄土を現出させていったのです。
注
1.『吾妻鏡』嘉禄2年11月8日条
2.『同上』文治5年9月23日条
3.『同上』文治5年9月17日条
4.『古事談』第二
5.浅井和春「中尊寺金色堂の仏像をめぐる諸問題」(『中尊寺の仏教美術』)吉川弘文館)