今日1月14日は中尊寺を開山された慈覚大師円仁(えんにん)さまのご命日です。中尊寺本堂では慈覚大師御影供(みえく)が厳修されました。

 

 

 大師は平安遷都の行われた延暦13年(794)、下野(栃木県)に生まれました。

 大同3年(808)、比叡山に登り伝教大師最澄さまに師事して学問と修行に研鑽を深め、承和5年(838)、最後の遣唐使(けんとうし)として博多津(はかたつ)より唐に渡りました。五台山(ごだいさん・山西省)で念仏を学び、その後長安(ちょうあん)の大興善寺(だいこうぜんじ)で金剛界大法(こんごうかいだいほう)を、青龍寺(せいりゅうじ)で胎蔵界・盧遮那(たいぞうかい・るしゃな)大法と蘇悉地(そしつじ)大法を授かりました。こうした中、武宗(ぶそう)によるいわゆる「会昌(かいしょう)の廃仏(はいぶつ)」の迫害が唐土に吹き荒れたのです。この間9年半に及ぶ苦難の旅を経て、当時最先端の密教や浄土教を日本へもたらしました。その求法の旅は『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』全4巻に著され、マルコポーロの『東方見聞録(とうほうけんぶんろく)』、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の『大唐西域記(だいとうさいいきき)』と並んで世界三大旅行記と称されています。

 

 大師が唐よりもたらした密教や念仏が法華経の教えと融合して天台の教えが確立してゆくと、その流れを汲んだ「聖(ひじり)」や「修験者(しゅげんじゃ)」などの人々が東北から九州まで広範な伝道活動を展開してゆきます。北は青森県の恐山(おそれざん)から南は九州国東(くにさき)半島の六郷満山(ろくごうまんざん)まで、天台宗、またかつて天台宗であったと伝える古刹は全国枚挙にいとまがありません。

 

 中尊寺は嘉祥3年(850)、慈覚大師が弘台寿院(こうだいじゅいん)として開山したと伝えられていますが、実際には大師の法系(ほうけい・教え)を汲む人々が、大師を開山(かいさん)と仰いだ、いわゆる「勧講(かんじょう)開山」と考えられています。(注)大師の時代を下ることおよそ250年、藤原清衡(ふじわらのきよひら)公によって「紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)」書写奉行(しょしゃぶぎょう)を命じられ、初代中尊寺経蔵別当(きょうぞうべっとう)に補任(ぶにん)された骨寺村(ほででらむら)の領主・自在房蓮光(じざいぼうれんこう)も大師の法系を汲み京や比叡山(ひえいざん)から全国へ教線(きょうせん)を張っていった聖の一人だったのではないでしょうか。そのような伝道者達が清衡公という大檀越(だいだんおつ・庇護者)を得、大師の教えに基づく、法華経・密教・浄土教を融合した中尊寺の伽藍造立を手がけたとも考えられます。また『入唐求法巡礼行記』には、大師が唐の五台山金閣寺で騎師文殊菩薩像(きしもんじゅぼさつぞう)、経蔵閣で紺碧(こんぺきし)に金銀字で写経された大蔵経(だいぞうきょう)6千余巻を拝観したという記事もあり、中尊寺の騎師文殊五尊像や金銀字交書一切経などの源流を辿ると大師の事蹟が影響しているのかも知れません。

 

 慈覚大師像(中尊寺開山堂安置 西村公朝作)

 

 中尊寺の僧侶は一山住職への登竜門(とうりゅうもん)として、寺に入って21ヶ年の間「結衆(けっしゅう)」として冬夏5日間、大師を祀る開山堂(かいさんどう)に籠もり修行研鑽(しゅぎょうけんさん)に励みます。結衆首座の「役席(やくせき)」に就くための前行では、秘伝の法である「慈覚大師密印(みっちん)」の伝受が必修となっています。

 

 大師の教学は日本の仏教に大きな足跡を残しました。中尊寺においても歴史的な事蹟(じせき)を超え、清衡公による中尊寺建立供養の精神的な寄辺(よるべ)となったのです。

 

 追筆

 慈覚大師御影供法要の最後に(けつ)(しゅう)(若手僧侶)の首席である役席(やくせき)が木桶の上に(しの)(だけ)に挟んだ逆三角形の(しで)を持ち、両掌で竹の柄をすり合わせて幣を回転させ、次席である(いち)()(しょう)がその上から(すい)(びょう)(じょう)(すい)を注ぐという所作があります。中尊寺では古来、これを「ベロベロ」と称してきました。ベロベロの呼称は(あつ)()(じん)(ぐう)の「オベロベロ祭」を連想させるものとも指摘されています。正式には「(とう)()(しん)()」と呼ばれ、「()(づえ)(まい)」と「(おうぎ)(まい)」、「(ふり)(つづみ)」などからなる()(こく)(ほう)(じょう)を祈る神事で、宮中で1月中旬に行われてきた踏歌(せち)()に由来するものだそうです。中尊寺(しゅ)(しょう)()()(おう)(つえ)()(づき)(はつ)(うま)の神事、毛越寺の延年(えんねん)などとの関連性にも興味をそそられます。(注2)

 また、中尊寺の慈覚会には、この「ベロベロ」の他、法要前、集会所にて(しゅっ)()(しゃ)(くし)に刺した煮染(にし)めを配って皆で食し、櫛のみを回収する風習があります。平安時代以降、毎月十五日と三十日に比叡山を始めとする寺々で行われたとされる()(さつ)()(注3)において、浄水・(こう)(とう)で煩悩の(ちり)を浄め、(かん)(きん)(たらいと布巾)で(ぬぐ)う「(せん)(しょう)」や、出仕者を数える「(ぎょう)(ちゅう)」(かずとり)の作法があり、ベロベロに浄水を注ぐ作法や、煮染めの櫛とも類似点があるようにも思われます。しかし古来からの中尊寺年中行事に布薩会は管見(かんけん)されませんので想像に過ぎない話ではあります。

 

 

1. 佐々木邦世『中尊寺史稿』「第一編 寺伝及び諸説の見直し」(一)慈覚大師開山説とその考察

2. 菅野康純 「慈覚会 御影供と「べろべろ」」(『寺報関山』第4号

3. 源為憲撰『三宝絵詞』巻下

 

 参考文献

  木内堯央「慈覚大師円仁にまつわる伝説と信仰」(『寺報関山』第7号