F. R. O. D.

フランシスコ・リード・オコンネル・ディクソン編「想像上の存在・人間」シリーズ(Francisco Reed O. Dickson ed. “Imagined Being : Human – Reflection on the Origin and Spread of Anti-Nationalism” Ⅰ~,2166~,Xell University Press)

 

「あの思い出せない夢を探して●●を読む」

F. R. O. D.

フランシスコ・リード・オコンネル・ディクソン編「想像上の存在・人間」シリーズ(Francisco Reed O. Dickson ed. “Imagined Being : Human – Reflection on the Origin and Spread of Anti-Nationalism” Ⅰ~,2166~,Xell University Press)

「すべての『言説』は眩惑的である」

F. R. O. D.

フランシスコ・リード・オコンネル・ディクソン編「想像上の存在・人間」シリーズ(Francisco Reed O. Dickson ed. “Imagined Being : Human – Reflection on the Origin and Spread of Anti-Nationalism” Ⅰ~,2166~,Xell University Press)

 

「あの思い出せない夢を探して●●を読む」

 

「自発的奴隷制への社会的要請の可能性について」

「○○は『人はそれを社会化と呼ぶ』と言った」

「それは『自己洗脳』と呼んだほうが社会的要請に、より効率的に応えられるだろう」

「その『自己洗脳』を『自分いじめ』と呼んでもよい」

 

「こうした社会的要請は、21世紀初期の日本においてはその社会的様相が、見方によっては平安時代と似ていることとも関係している」

「これらは福沢諭吉、とくに彼と民族問題の関係に深くかかわっているかもしれない」

「それはまた福沢の“士族への期待”、そして新渡戸稲造の『武士道』とも関係しているかもしれない」

 

「言語=認識であるとするならば、『言葉で説明できるようになった』ときに初めて『認識した』と言える。このときに『認識した』と『理解した』は同じ意味であろうか?」

「自分に『言葉で説明』して『理解した』と感じられた場合と、他者に『言葉で説明』して『理解した』と感じられた場合は同じであろうか?」

「これは『理解と誤解』の問題と関係している」

 

 

 

「筋肉は童話の『大きなかぶ』のようなものだ。例えば次のような場合を想起せよ。

更にお尻の右側を上げ、ひざを曲げて右足を左ももの上に乗せる。そして右ひざを伸ばすとふくらはぎにちぎれるような痛みが生じるかもしれない。それは一つには筋肉が筋肉を引っ張るからである。

 

 

 

 

 

 

一つにはまた左の内またから外側へ、更に左下に伸ばしてみよう。続けていけば左の大腿二頭筋にちぎれるような痛みが生じるかもしれない。同じ理由によるものである。

スクワットで同じことをすると右の内またの前側が痛むかもしれない。同じ理由によるものである」

 

「これは上体とひざが一直線の状態からどこまで幾何学的直線・角度を崩さずにひざを曲げられるかということとも関連している。私たちはこれを試みるとどこが痛くなるだろうか?それは一つには筋肉が筋肉を引っ張るからである」

「これが呼吸とどのように関係しているかという別の問題がある」

「呼吸はお金の逆だ。即ち『入るを制して出るをはかる』。これはいかに出すかということが重要だが、しかしこれもまた吸った空気をどのように使うかが重要だということと同じなのである。

これは金融と同じだ。優れた金融とは『優れたお金の使い方の提案』であり、お金の最も優れた使い方は、そのように使えば使うほどお金が増えていく使い方である。それはいわゆる『金融資本主義』が、その字面の悪印象にもかかわらず、人類史上最も優れた経済思想であると言わんばかりの人もいる理由でもあるだろう。

それはともかく、つまり吸った空気による利益を『増やす』ように使うには、吸った空気をより多く、より長く吐くことが重要なのである。これは腰痛体操をするとよくわかるのだが、そのために必要な筋力はどの程度か」

「それが一定以上の筋力を要するものならば、その社会的要請に応えるには、その筋力が得られるまでの期間はモラトリアムとして認められるかは、この問題についての意見の内容を決定する最も重要な基準の一つであろう」

「このような考え方がありうることは、右太ももを上げ、上げた右ひざを左手または右ひじでさわるという運動でもわかるだろう。反対側も同様に行う。頭頂に十指を置き、ひじはくの字に曲げるといっそうよく理解できる。あるいはもっと単純に三角筋、僧帽筋が痛くなるまで腕を伸ばしてみる。その人にとって痛くなるまでという点が重要だ」

「呼吸は、もちろん、姿勢と分けて考えることができない」

「これはいわゆるスクワットをしてみればわかる。単純に、立って座るということを繰り返すだけでもいい」

「筋肉間の『大きなかぶ』関係を単純に走ることに応用してみよう。このとき、気を遣わねばならないのは、はじめは絶えず息を吐き続けることを目指すことだ。この段階では、息を吸うのは、思わず『あ、吸ってしまった!』ということでなければならない。そしてかかとからつま先への『着地ライン』と、両足の左右感覚を保つことだ。

そしてこの『着地ライン』が自転車のスポークのように回転するようにすることをめざしてみよう。もちろんそんなことは実際にできるわけがないが、しかし『できないことをそうしようとがんばる』ことによっていわゆる『つま先で地面を蹴る』ことをより効率的に行うことができるだろう。

自分の足を石原藤夫の『ハイウェイ惑星』の車輪型生物のように進化させることをめざすのだ。

繰り返し言おう。できないことをやろうとあがきもがくことで、別の役立つことが実現することがある。つまり体を使った錬金術だ」

続く

「このように筋肉間の関係を童話の『大きなかぶ』のようにとらえると、例えば『腕を曲げる→伸ばす』『ひざ(足、脚)を曲げる→伸ばす』などもより具体的には細かく小さい単位、部品、パーツに分けられる。即ち抽象(理論、観念、幻想、象徴)から具象、具体、実践へと、スペクトル変異(偏移)のように繰り広げられるのである。つまりこれは再統合であり、再体系化である。

しかし抽象は通例においては具象、具体、実践から生まれる。ここに〔も〕○○○○が指摘したらせん状の循環思考がみられる。

いずれにせよ、その『成分の組み合わせ』を明らかにすることもひとつの課題である。つまり抽象観念やそれに対応する具体的事象にも、比ゆ的な意味ではあるが『組成の科学』即ち『化学』があるのである」

「ここで考えられなければならないのは、筋肉運動における意識と無意識の弁証法的関係だ。これはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』やカントの所論と関係している。

例えば○○筋を使って××筋を△△すると考えてこれを実行したとする。」

 

 

F. R. O. D.

フランシスコ・リード・オコンネル・ディクソン編「想像上の存在・人間」シリーズ(Francisco Reed O. Dickson ed. “Imagined Being : Human – Reflection on the Origin and Spread of Anti-Nationalism” Ⅰ~,2166~,Xell University Press)

 

「あの思い出せない夢を探して●●を読む」

「熱病の夜、地震の夜、夢魔の夜、オオクビソラガメ狩りの夢から覚めて」

「『○○筋を意識する』とよく言われる。これはどういうことを意味するのか。これは観念的な表現ではないのか。経験を直接的に表現したものは、その経験をしたことのない者にとっては『観念的で抽象的な表現』となる。経験が共同体的に共有されなくなった社会においては、それまで『パッケージ』で理解された片言節句が、具体的な身体感覚をぎゅうぎゅういっぱいに詰め込んだ、詰め物の贈り物とならなくなる。無味乾燥な空箱となる」

「『○○筋を意識する』とは具体的にはどういう意味か。『そんなこともわからない』」

「『孤独な群衆』」

「『○○筋を意識する』のは一つにはまず『○○筋を動かそうとしてみること』か。『パッケージの贈り物』として受けらなくなった生き物である言葉は、分割されて機械となる」

「『○○筋を動かそうとしてみること』は、『○○筋に何かを感じさせようとしてみる』ことか」

 

「同様に『自発的奴隷』とはどういうことか。それはどのように許容され、どのように禁止されるのか。それが『普通の人間が、心身が外部から生じせしめられる負の感情をその自発的奴隷に転嫁せしむる』ことであるとするならば、それはこれもまた具体的には何を意味するか。新渡戸稲造の『武士道』はこれを具体例を用いて説明したものと受け取ってよいのか。

『葉隠』、三島由紀夫の『葉隠入門』はどうか。日本の『戦前戦中』時代の『修身』はどうか」

 

「『言説』とは何か」

「すべての『言説』は眩惑的である」

 

「すべての『言説』は仮想現実であるか又は仮想現実的でありうる」

「その『言説』が伝達する〔伝える〕意味内容が『現実』『事実』であっても、それは『現実』『事実』を模倣した仮想現実であり、それが『身体言語』によって表されている場合も然りである」

「比喩とは少なくとも形式においてはフィクションである。現実と対照・照合されるフィクションは必然的に政治的となる。故にすべての(特にいわゆるメタ)フィクションである可能性を持つ」

「『言説』であることの条件の少なくとも一つは、記号、象徴から構成されていることである」

「従ってその『言説』が『身体言語』によって表されている場合はその『身体言語』の構成要素もまた記号であり象徴である」

「たとえば体を動かしてX字、Y字、くの字を描くことなどがそのわかりやすい例である」

「『言説』であることの条件としてそれが『パフォーマンス』であることがあげられる」

「ここで言う『パフォーマンス』は『他者に影響を及ぼす行為』を意味する」

「その場合、『パフォーマンス』の影響力の対象となる『他者』は、まず第一に行為者自身でなければならない」

 

「連想」

「偶然と暗合」

「例、特定の数の宗教的意味(キリスト教の3、7など)」

 

「『パフォーマンス』とは何か」

 

 

「『フィクション』とは何か」

 

「『仮想現実』とは何か」

 

「『言説』とは何か」

「すべての『言説』は眩惑的である」

「言説の例:『筋肉はう×こだ!』」

「いわゆる『身体言語』は『言説』であるか又は『言説』でありうる」

「いわゆる『身体言語』は仮想現実であるか又は仮想現実でありうる」

 

「重心とは何か」

「重力と重心とちんことうんことうん肛門」

「骨盤の穴はもちろん一つにはうんちをする穴だ」

「しかし男と女では骨盤の穴の目的は違うかもしれない」

「ちんこと肛門は重心としてどこが違うか」

「スクワットによってこれを明らかにすることができるか」

「どのような体操によってこれを明らかにすることができるか」

「算数・数学はこれを明らかにするのにどのように役立つか」

「解剖学はこれを明らかにするのにどのように役立つか」

 

「骨盤で歩く。骨盤で走る。そのためにも骨盤に穴が開いている」

 

 

「我々には見えていない」