「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見されたか原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

 

 

 

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

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「万物の霊長である人間たるものにとって『自然体』は『何も意識せず体になすがまま』であってはならない。『自然の理に則った姿勢』の意味でなければならない。『自然呼吸』もまた然りである。

 

 

そしてこれを『自分の欲するまま』の結果として行えるようになれば達人の域である。論語に『欲するままにして則を越えず』とあるのがそれである」

 

 

「人類の発祥より長きに渡ってその生活は一挙手一投足が筋力トレーニング(すなわち筋力鍛錬)の役割を果たした。その時代がいかに長く続いたことか。そして女と奴隷こそその体現者であった。その痕跡は様々な美術品にも歴史の物言わぬ証言者としてとどめられている。

 

 

この観点から見た時、西暦第十九世紀こそは人類史の現在に至る最大の画期であった。すなわち『第十九世紀こそ』筋権主義の観点より見たる人類文明の『岐れ目』、『岐れ道』の入り口であった。そして人々は個々人としてまた集団として『救いの道』と『亡びの道』に分かれた。聖書にあるように『救いの道』は狭く、『亡びの道』は広かった。『救いの道』を通るのは『針の穴にラクダを通すように』難しかった。しかしその狭い『救いの道』を通り抜けられた人々の数は決して少なくなかった。そしてその中に『女と奴隷が多かった』ことは認めなければならない。

 

 

これは、人類にとって幸運なことでもあった。その理由の一つは、『救いの道』を通り抜けた女の産み育てた子供は男女にかかわりなく『救いの道』を通り抜けることが多かったからである。こうして筋権主義より見たる人類の未来は、その行程の苦難とは裏腹に、明るく爽やかに太陽がさんさんと降り注ぐように拓かれていったのである」

 

 

「〔20230703〕筋権主義から見た我々の世界の歴史において西暦紀元後の第十九世紀こそは最大の画期であり、分水嶺であったということは既に述べた。

嗚呼、人の歴史よ、喜びよ!

『正しい歴史』は『希望』であり、即ち正しい八百万の神のお一人であり、『間違った歴史』は『心のごみ』であり、正しい神仏に踏まれるべき卑小卑劣な天邪鬼である。

とまれ、我々人類の歴史は、この第十九世紀を境に『それ以前』と『それ以後』に分けられる。つまり『第十九世紀以前』と『第十九世紀以後』だ。

これはキリスト教の出現を画期とする紀元前と紀元後の区分以上に重大な意味を持っている。キリスト教は人間の高々区々たる表層的な意識の変容をもたらしたに過ぎず、その影響はいかに規模が大きかったとしても、少なくとも超長期的に見れば絶対的ではなく、失われて忘却され、可逆的ですらあり得る。

第十九世紀に端緒を持つ変化は、その意識の発する基、地盤である身体の変容であり、その変化は次に続く変化の基層となって残り、次の変化の原因となるなどしてその内容を規定し制約する。

その影響は不可逆的である。

それは人間、いや生きとし生けるものがいつかは必ず死ぬというのと同程度に絶対的であり、変えることができない。而してその直前、第十八世紀においてその不可逆的変化を準備したものの一つが、英国の『産業革命』であった。人間の身体活動の機械化・機械代替化・自動化(きわめて広義における『 “サイボーグ”化』)の道のりはここに始まった。

そしてもう一つは仏国をはじめとする『啓蒙思想』『啓蒙主義』である。これらは第十九世紀後半において日本のみならず世界の聖賢に列する福沢諭吉翁に結実する」

「そしてこの第十七~十九世紀を境に、筋権主義より見たるこの人類世界の歴史の発展過程の中心が、南北アメリカとアジア・アフリカといったそれまで世界史の周縁部とみなされてきた地域に移行する胎動が始まる。その中で最初に重要になったのは北アメリカ、次いで南アメリカ、更にアフリカ、インド、西アジア、そして中国とロシアである」

「先にも述べたように、人類の歴史は第十九世紀を境に前半と後半に分かれると言っても過言ではない。そしてその第十九世紀後半から『日本の近代』が始まったと言われていることは決して偶然ではなく、人類の文明史における日本文明の輝かしく名誉ある地位を物語っているのである」

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何ものにもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。