「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

「石川啄木は『友がみな我より偉く見ゆる日よ』とうたったが、筋力において劣る者はこのような精神においてそれを甘んじて受け入れて生きていくことを、人間である以前にいち生物の道徳として求められ義務付けられるのである。

これは生物として欠けるところ、不足なところに由来するのであるから、社会的な問題ではなく、自然界の厳しい掟の問題である。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

筋力において劣る者は『身の程を知って口を慎む』ということが、そうでない者以上に求められる」

 

 

 

 

「筋力において劣る者、すなわち『筋力劣者』は筋肉感覚において劣っているか、甚だしくは欠如しているため、自分自身を正しく認識することができない。またそのこと自体を認識できない。すなわち筋力劣者は自分が自分自身を知らないということを知らない。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

ソクラテスはアポロン神殿の神託の名のもとに『自分自身を知れ』と自分に課したが、彼がここに探求の余地を、またそこに最も優先すべき課題があることを見いだせたのは、彼が当時のレスリングを能くする筋骨隆々たる偉丈夫だったからである。

 

 

 

 

とまれ、然るが故に筋力劣者は自分自身について正しい選択をすることができない。なぜなら、あらゆる選択には、その選択という判断を行うために、それに先立って、つまりそれをする前に、その判断の結果を予想する、つまりその未来像を思い描くための材料となる情報が必要だからである。

 

 

筋力劣者は自分自身を正しく認識できず、そればかりか『自分が自分自身を正しく知らないということも知らない』ので、必要な情報を持つことができないのである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

ユングは『常に間違った選択をしてしまう人』を『ピッチフォーゲル』と呼び、『いつも必ず間違ったほうの足を踏み出してしまう人』と説明したが、筋力劣者が自分自身について自分で行う選択判断がこれに当たる。そして筋力劣者が一定以上の筋力を持つ者から指示されずに行う一挙手一投足がすべてこれに当たり、須く失敗する運命にある。

 

 

それは当人にとって不幸であり、したがってそうしなければならない場合があるということ自体がそもそも不幸である。またそれは、周囲に影響を及ぼす行為である場合には当然周囲にとっても不幸であり、したがってそうしなければならない場合があるということ自体が周囲にとって不幸である。

 

したがってこうした不幸の連鎖を最小限にとどめるために、周囲に影響を及ぼす行為について筋力劣者には自分で選択判断させないようにしなければならない。また代わりに別の筋力劣者が選択判断してやるということも避けなければならない。なぜなら筋力劣者は自分自身について正しく認識できないだけでなく、その理由である筋肉感覚の劣弱、甚だしくは欠如のために、それ以外の認識もくまなくすべてにおいて信頼できないからである。筋力劣者の代わりに選択判断を務める者は必ず一定以上の筋力を持つ者でなければならない」

 

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋力劣者が自分自身についての選択判断で成功することがあったとすれば、それはその者の自分自身についての認識の正しさ、その正しい認識に根拠を持つものではないのである。偶然的要因の結果である。すなわちただ単に『運が良かった』のである」

「筋力劣者に、その者自身について委ねてはならない選択判断の代表的なものは所謂『人生の岐路』、ありていに言えばその節々の進路である。

義務教育を終えた後、進学か就職か、自分と違って一定以上の筋力を持つ者の助言に必ず耳を傾けなばならない。そして交際異性、配偶者の選択においては更に然りである。エリクソンの言う自己同一性の獲得は、筋力劣者においては一定以上の筋力を持つ者の助言に忠実に従った場合にのみ確実な成功を期待することができる。

それだけでなく、こうしたことは趣味嗜好、更に言えば日々の食事の選択にも当てはまる。更に所有する道具にも当てはまる」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「自分の怒りを自分で管理すること、すなわち『怒りの感情の自己管理』は、筋力において劣る者、すなわち『筋力劣者』が最も不得手とするところである。このことは、筋力劣者は自覚していないが、その周囲の人々は経験的によく知っている。これには生理学的な避けがたい原因理由がある。

すなわち怒りを自己管理するには自律神経のうち、いわばブレーキとなる副交感神経の活動を必要とするが、そのためには筋肉が活発に活動することが前提となるからである。それによってまずアクセルの交感神経の活動が活発化し、それに対する反射的な抑制として本能的な、つまり大脳、特にその前頭前野の理性的意思に拠らないという意味での『自律』活動として副交感神経が働き、感情の昂ぶり全体をまるごと抑える。これが、身体が『怒りを自己管理する』仕組み、メカニズムなのである。

しかし筋力劣者は筋力の水準が甚だしく低いか、甚だしくは欠如しているために、こうした身体の自然的機能による最も有効な方法をとることができない。副交感神経を刺激しようにも、その段階に至るほど筋肉を活動させることができないのである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

しかしその一方で、筋力劣者は『怒りを抑制できない代わりに、怒ること自体がない』のかと言えば、そうではない。

確かに、筋力劣者は筋力が劣っているが故に筋肉感覚において劣っているか、甚だしくは欠如しているため、自ら筋肉運動することによって自分を鼓舞して怒るということはない。しかしその代わりに、その共感性、すなわち協調性、すなわち同調性のなさからくる『わがまま勝手』な理由による自己防衛を理由として突然怒りを暴発させる。これは周囲からは理解されない。

それは一定以上の筋力を持つ者の筋肉感覚に根差す、すなわち健全な他者との共生を前提とした「生への欲求」に根差すものではない。外なる自然からも、身体という内なる自然からも切り離された『頭でっかちの怒り』である。これを命あるものの怒りと呼ぶことはできない。その者が自分で自分の中に作り出す『形のない機械』とでも呼ぶべきものである。

しかも筋力劣者は自分がこれを作り出したことを自覚することなく、それが作り出す暴力衝動に操られるように突き動かされ、結局のところ、非力な自分にも扱える刃物や銃器等々の道具を通じて他者に危害を加える。それによってその衝動的欲求を満足させるのである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

筋力劣者は自己の身体を高速で活発に活動させるだけの筋力を持たないために、全体に活動の速度が遅く、活動量そのものも少ない。そのため、『おとなしい』とみられがちである。しかし『怒りの感情の種子』はその内面にあり、その中に一定以上の筋力を持つ者が持たない性質のものが含まれる。そして筋力劣者は、筋力が劣っているというまさにそのこと自体のために、筋肉活動を通じた副交感神経の活動によってそれを抑制することができない。

こうしたことに加えて筋力劣者は筋肉感覚が劣っているか甚だしくは欠如しているためにこうしたことを自覚することができず、それに加えて同じ理由で『自分自身について正しい判断をするということができない』『常に間違ったほうの足を踏み出してしまう』者たちであるが故に、自分のわがまま勝手な怒りを事あるごとに暴発させてしまう宿命を負っている。怒りっぽい人、何かにつけて怒り出す人を『瞬間湯沸かし器』と言うが、筋力劣者はあまりに鈍重で怒ることなどあり得ないように見えるものが突如爆発するのは、その内面ですでにその前から秒読みカウントダウンが進んでいる可能性があり、それを外部からは不可知であるが故に『時限爆弾』と呼ぶべきである。

筋力は怒りを抑制するブレーキとなるものだが、筋力劣者は利きが悪いか甚だしくは欠如しており、ただ『わがまま勝手』すなわち『自我が肥満症』という『怒りへのアクセルの故障による暴走』だけがあるのである。しかもその自覚がないが故にしばしば自分自身に対して『ブレーキのつもりでアクセルを踏む』、自分自分自分が自分 自分自分が自分自分筋力自分『』『』怒り」筋力

自分が自分 自分自分が自分自分筋力自分『』『』怒り」筋力

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

」(佐和山清太郎『筋権党宣言』)