「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見されたか原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

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「筋権主義者は企業家、少なくとも広義の『実業家』でなければならない。それは形はどうあれ、筋力向上の重要性を広く社会に伝道する、即ち教え広める企業、実業、事業である。なぜならそれこそが、それだけが本来の意味の『福祉』であるからである。その『福祉』の目的を達するために筋権主義者は時に非情にならなければならない」

 

 

 

 

 

 

 

 

「筋権主義者が繰り広げる事業はその性質上、多角的とならざるを得ないであろう」

「筋権主義者はまた真の意味での『大衆のための政治家』でなければならない。それは『良い意味でのポピュリスト』『良い意味での俗物政治家』」とも言える」

 

 

 

「『企業家』にせよ『大衆のための政治家』にせよ、筋権主義者は『個人の愛情』よりも『大衆の求めるところに応える』。そのために『結果を出す』ことを優先させねばならない。そのために自分の安楽をあえて放棄することはもちろん、特定の追従者にさえ非情にならなければならない。しかしその追従者が真の筋権主義者であるならば、むしろそれを支持して求め、そうせよと𠮟咤激励するはずである」

 

「筋権主義者はその事業活動において何よりも『結果』を出すことを求められる。それは不特定多数の『評価』を受けねばならないし、その『評価』こそが真の目標となる『結果』であるとも言える。

 

 

その評価の基準は所謂『常識』によらなければならない。『常識』とは言い換えれば『誰の目にも明らかである』ということである。この意味においては筋権主義者は『多様性』を求めない。その『常識』の根幹には常に『伝統』がある。その見かけ上の表層の有り様がいくら移り変わっても、その根底には常に『古来の伝統』が存在している」

 

 

「不特定多数の大衆の常識、すなわち『多数決』による評価を宿命づけられているが故に、筋権主義者が産み出すものは一目瞭然でなければならない。それが何であり、何の役に立ち良いものか悪いものか、優れたものか劣ったものか、そして美しいか醜いかが外見でわからなければならない。またその価値、それに値するのはなぜかということが数字で表されなければならない」

 

 

「そこに至る過程がいかに麗しくても以上のような結果が伴わなければ筋権主義においては一顧だにされない、すなわち『認められない』」

 

「そしてその『評価』の対象にはその筋権主義者自身の身体的外見も含まれることは言うまでもない。それはその『評価』というコンテストの参加資格要件となる。そしてそれもまた一目瞭然であること、そして数字で表されることが必要なのは言うまでもない」

「そしてそのためにも筋権主義においては『人体解剖学』が必須の『一般教養知識』という意味での『常識』となる。また社会全体においてそうであることをこいねがい、その考えをあまねく推し広めようとするのである」

「こうした考え方を通じて筋権主義者は人類普遍の思想、主義、理念として性別や階級、人種、そして何よりも民族や国籍等々を超越する。文字通り『八紘一宇の慈悲慈愛』『世界は一家、人類はみな兄弟』という『博愛』の思想なのである」

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。