「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

「『健康』の維持を前提とした幸福追求のためにはあえて安楽に背を向けて身体に負荷をかけなければならない。このことは遠く昭和の初期から知られていた。その頃、ラジオ体操を普及させようとパンフレットが出されたが、そこにはこのように書かれていた。

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

『昔から「健康は幸福の母」といわれるように、健康であって初めて人生の幸福を愉しむことができます。近代物質文明が急速に発達し生活は便利になりましたが、その一方で身体を使う作業範囲が減り不健康になります。(中略)それに(対して)は適度な運動法で健康を維持する努力が必要です』(中村格子の著書から再引用)」

 

 

 

「筋力において劣る者、すなわち『筋力劣者』は、筋権主義の時代において新たに『奴隷』の役割、職務を担うことになる。

これは、強権主義と金権主義の時代において不当に『奴隷』とされねばならなかった、あるいは名目はそうでなくとも事実上奴隷として扱われなければならなかった人々に代わって自然的身体的条件によって本来奴隷として、すなわち自分で物事を判断せず他からの命令に忠実に従って働くことでしか確実には成果をあげられない、また結局のところそうしなければ確実に幸福な生活を送ることのできない者たちがその本来の姿に収まるだけのことである」

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

「筋力において劣る者、すなわち筋力劣者は『創造性』と『芸術』から最も縁遠い人間である奴隷」

 

 

「筋力において劣る者、すなわち筋力劣者に最も期待されるのは『所与の数字(数値)の暗記』である。それは価値判断から最も遠く、なおかつ筋力を要しないからである。筋力劣者のうちでこれを苦手とする者はその壁を努力で克服することを社会的に義務づけられる」

「『所与の数字(数値)の暗記』も、そこに『価値判断』が含まれる場合においては筋力劣者には許されないものとなる。

すなわち筋力劣者は『価値判断』をしない範囲で算数、数学を研鑽することを許される。これを苦手とする筋力劣者はその壁を努力で克服することを社会的に義務づけられる。

しかしこれを苦手とする筋力劣者は多い。特に文章題において著しい。なぜなら算数、数学において用いられている日常言語は、筋力劣者の人格的特徴である『わがまま勝手』から最も遠いものであるが故に、筋力劣者にとっては理解困難であり、しかもそれを自覚していないので、しばしば誤読し、しかもそのことに気づかないからである。

これは筋力において劣る者が筋肉感覚において劣り、そのため、共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣るか、甚だしくは欠如していることによる。

それでも筋力劣者はその壁を努力で克服することを社会的に義務づけられる」

「」筋力において『』

それだけでなく筋力劣者にとっては、やむなく『価値判断』を要する文章も、とくにその中で行われている価値判断が真に公平で公正であればあるほど理解困難であり、誤読し、しかもそのことに気づかないからである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

所謂文系においてこの『所与の数字(数値)の暗記』に当たるものがあるとすれば、それは『所与の漢字の暗記』であろう。しかし、これは『所与の数字(数値)の暗記』よりも応用範囲が狭い。それだけでなく、許容範囲がより狭いであろう。なぜならば、その対象の性質から言って『わがまま勝手な価値観の侵入の抑止・排除』がより困難となるからである。というのは数の場合と違って漢字の成り立ち自体に一定の価値観が含まれている場合が少なくないからである。だから筋力劣者は『どの漢字を暗記するか』の選択を自分以外で一定以上の筋力を有する者に委ねなければならないのである。なぜなら、価値判断を許されるための条件はいくつもあるが、その中には『所与の数字(数値)の暗記』が価値判断を含む場合と同様に、一定以上の筋力を有することが含まれるからである。

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

このように筋力劣者は、その者が筋力劣者であり続ける限り、広義の所謂知的活動としては『所与の情報の暗記』のみを容認され、その有用性を認められる。再三述べてきたように、本来知的活動は全身を働かせて行うものであり、その可能範囲は筋力の程度に比例するから、筋力の低い者に許される(つまり健全に行うことが可能と認められる)範囲が狭小とならざるを得ないのはやむを得ないところである。その中でも価値判断という行為活動は特に筋力によって制御されるところが大きいので、筋力の低い者に許されてはならないのである」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による

 

「言うまでもなく人間は『感情の動物』であり、『情報の動物』である。更にそして忘れられがちだが、しかも筋力の低い者、すなわち筋力劣者においては認識すらされないことだが、人間におけるこの感情と情報は主に自律神経を通じて筋肉、筋力と一体なのである。

したがって人間における『感情能力』『情報能力』の程度は筋力に比例する。

したがって人間は『唯脳』ではない。

『唯筋』だ。

そして『人間は全身の筋肉によって思考する。脳だけで思考するのではない』という意味においてのみ、『人間は全身が脳である。通常『脳』と呼ばれている器官部位だけが脳(思考器官)なのではない』という意味においてのみ、更には『骨細胞、脊髄にも感情、情報の作用と流通があり、思考に関与している』という意味においてのみ、つまり『人間は運動する脳である』という意味においてのみ『唯脳』と言い得るのである」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

「筋権主義とは一つの『健康主義』である。なぜなら、筋権主義は筋肉こそ生物としての人間の、ヒトの本質と考えるからである」

 

「世には、脳こそが人間の本質であると考える向きもある。それは見方によっては正しいが、大体は間違った意味において言われている。

『脳こそが人間の本質である』と主張する人々の多くは、頭部にある『所謂「脳」』のみを取り上げ、それのみを『脳』と呼び、人間の唯一の思考器官と考える。しかし筋権主義はそのように考えない。筋権主義は、人間が全身くまなく全ての細胞によって『考えている』と捉える。その中には所謂『運動器官』ももちろん含まれる。その意味では人間の身体全部がまるごと一つの『広義の脳』である。その意味において人間は『脳だけでできた存在』と言い得る。ただしこの脳はもちろん歩き、走り、跳び、つかみ、投げ、その他物理的に可能なあらゆる動作を行う。足や手などその時その時に動いている部位も狭義の脳に動かされている奴隷ではなく、広義の脳の一部であり、実際には自らものを考えてもいるのである。ただもちろん音声や文字で表される言語でその思考を言い表すことがないだけである。代わりにそうした細胞、また細胞群はその思考を『感じたこと』として神経を通じて狭義の脳に伝えているのである。その中でも『筋肉がしている思考』の比重がきわめて大きい。

だからこそ普通考えられている以上に、人間の思考は『血行』すなわち『血の巡り』『血の流れとその循環』によって大きく左右される。それ自体が既に『広義の思考』であると言ってもよい。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

そして血管もまた筋肉の一種であり、その個人の筋力によって機能の如何が決定付けられることはよく知られているところである。

そのようにしてなされる人間の思考の賢愚は、つまるところその先見力、予測力によって評価を結論付けられる。認識対象の行く末をどれだけ的確に予見し得たかでその認識の当否が決まる。そして妥当な、つまり可能な限り正確な、実際に起きたことに近い予想をしたうえで、もちろん手をこまねいていてはならない。あらかじめそれに対応する準備をしておくことが求められる。

それでこそ『予想』という行為の過程は完結する。せっかく正しい予想をしても、それきり何もしないのでは宝の持ち腐れというものだ。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

そしてこの予測力は超自然的なものである必要はない。言い換えれば、超自然的な能力がなくとも『将来何が起きる確率が高いか』を正確に予想することは可能である。そしてそれは超自然的な能力のない『所謂普通の人間』の努力によって可能となる。

いや、むしろ超自然的な所謂『超能力』による『予知』『予言』よりも、それによらない予想の的中のほうが価値があると言える。それは、そこに至る努力によってその予想をなした当人に達成感の満足をもたらすというだけではない。

特定の『生物学的に厳密には人間ではない』者たちが、その者たちだけが生まれながらに持っている能力で行う予知よりも、そうでない所謂『普通の人間』が刻苦精励の努力によって予知を成し遂げたという事実のほうが、それを知った多くの所謂『普通の人々』の『よし、自分も頑張ってやってやろう』という奮起奮発を促し、結果として多くの人々、ひいては社会全体、国全体、世界人類全体の努力による能力向上の底上げをもたらすのである。超自然的な能力による予知ではこのような波及相乗効果を期待できない。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

而して『努力による予知』を可能にするにはいくつかの条件がある。

その一つはビスマルクの言った『愚者は自らの経験に学び、智者は歴史に学ぶ』ということである。それはより多くの情報を持つことで予想の正確さを向上させるということでもあるが、それだけではない。自分よりも優れた成果を上げた過去の賢人の思考を模倣せよということでもあるのである。

それは自ら奢ることなく自分の愚かさを客観的に捉えるという、正確な予想の前提となる作業でもある正しくソクラテスの言う『無知の知』である。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

そのうえで、予想される出来事に対して何を目的として何をどのような順番でどのような時間配分で行うかを決めなければならない。ここで算数、数学といった呼び名はどうあれ、『数の計算』にかかわる思考が必要となる。それは『順番と配列』をいかにぴったりと並べて嵌めるかというパズルだからである。

『何からどのように始めてどういう順序で進めていけばいちばん目的にかなった結果を出せるか』を言い当てた者が勝利する。

そして頭部にある『狭義の脳』、その中でも人間の大脳において数の計算と意識的な筋肉運動の中枢は同じく頭頂部にある。これは偶然ではない。人間において筋肉運動と『数の計算』は

深いかかわりがあることを示しているのである。

そしてこうしたことは、筋力の低い者がそうした努力による予想、予測の能力において劣っていること、その理由も示している。何か器質的な障害によって別のメカニズムが働いているという例外でない限り、それは避けることのできない必然なのである」所謂所謂」筋

 

 

 

 

 

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」(佐和山清太郎『筋権党宣言』)