「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

「筋力において劣る者には、そうでない者には求められない程度の『自省・自戒』が求められる。これは筋力において劣る者に求められる『感謝・尊敬』と関係している」

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

こうした者は何者にもなれない。

せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

 

「筋力において劣る者には自己の過去の否定的な事象について常にその原因を自分に嫁することが求められるし、実際にそうしなければならない。それは事実そうであるかではなく、道徳的な徳目上の理由からである。また事実として他に原因がある場合ではあっても、筋力において劣る者は、それを追及してはならないのはもちろん、それについて口にしてもならない。ヴィトゲンシュタインの『語ることのできないことについて語ってはならない』というのはこういう場合のことも言うのである。こうした道徳上の徳目には科学的な根拠がある。それは、筋力において劣る者が課される他の権利制限と同じく、筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しており、そうした状態の者が過去を振り返って自分及び自分を含む集団の過去の不祥事、否定的な事象の原因を考える場合に、自分以外の他者に原因があるという方向に思考が向くときには必ず自分一人のわがまま勝手な感情を満たそうとする衝動によって自ら認識を歪めることから免れることはできないからである。

 

 

そして過去の自分の失敗への対案も、絶対的なフォロワーであらざるを得ない筋力劣者は、筋力優者、その中でもその状況での自分にとっての絶対的リーダーに従わねばならない」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

「筋力において劣る者は魯迅の作中の『阿Q』であることを道徳的に余儀なくされる」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋権主義は強権主義と金権主義の肯定的側面の弁証法的発展の帰結であり、その起源の一端は河川の治水にある」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋力において劣る者は、そうでない者が嘘をつくことを許される状況においても、嘘をつくことを許されない。なぜなら筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しており、したがってその者がつく嘘の時と相手、状況以前に、つまりそれらがどうであれ、そのつく嘘の内容においてわがまま勝手で、自分の安楽快楽以外を考慮せず、他者を害する歪みから免れることができないからである」

「筋力年齢と精神年齢は相関しており、特に生後から筋力が上昇していく間は比例している」

「筋力が子供のままの者は、疾病や身体器質の物理的障害等の一部例外を除き、精神も子供のままである」

「一定以上の筋力を持つ者は互いに切磋琢磨しながら、時代に合わなくなった強権主義と金権主義による圧迫を拒むために共に闘う権利を有する。それと同じように筋力において劣る者は自分たちの不正な権利要求を互いに抑止し合わなければならない。それだけが、筋力において劣る者が持つことを許される『社会的・政治的な思想』であり、『社会的・政治的選択肢』である」

「礼儀作法の立ち居振る舞いの所作は筋力鍛錬のトレーニング、訓練である。然るが故に

人は相手の礼儀作法の所作からその筋力を、そしてそれによって相手の精神年齢を推し量るのである」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋力において劣る者は、そうでない人々への感謝と尊敬、そして自分がそれに欠けたり不足したり反したりするところがないか常に反省しなければならない。孔子の『日々三省』がこれに当たっている。

なぜそうしなければならないのか。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

それは筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しているからだけではない。更にそれ以前に筋力において不足、更に欠如があるということはそれだけですでに自然界での生存の必要条件を満たしていないということだからである。

つまりそのような者が生きているということはそれ自体がそうでない者に助けられて生きていることの間接的証明なのである。

それは筋力において劣る者はそうでない者に必ず負担をかけているということであり、筋力において劣る者にとって『耐え難い』、更には『耐えられない』労力をそうでない人々に委託外注して負担を外部化し、自らの負担を軽減して過労による即死を回避しているのである。

その代わり、その負担を引き受ける人々は、それを引き受けなければ自己の生存可能性の拡張をはじめ、自分のために使うことのできる時間と労力を、筋力において劣る者が即死しないようにするために使うという自己犠牲を果たしているのである。

ここでは筋力において劣る者に対してそうせずに潔く死を甘受せよと言っているのではない。ただ、このことを自覚し、感謝と尊敬と反省の営みを倦まず弛まず続けなければならないと言うのである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

また、特に近代以降に顕著なことであるが、筋力において劣る者は科学技術に助けられて生命を維持している。したがって筋力において劣る者は自分を助けてくれている無数の個人及び人間集団への感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省しなければならないだけでなく、自分の生存を支えてくれている科学技術自体、またその創造者や過去現在未来にわたってその恩恵の持続と発展を支える人々にも感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省しなければならないのである。

だから筋力において劣る者は科学技術を批判してはならないことはもちろん、それを『突き放して』あたかもその上に立って見るようなことも人として道徳的に許されない。科学技術によりすがりよりかかって生きており、そうせずには露命をつなぐことのできないそのあり方から言って人としての道義にもとるからである。『人でなし』の名に値する。

しかしながら筋力において劣る者は、まさに筋力が劣っていることそれ自体が原因となってそれを自覚することは困難を極める。筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如しているからである。それがその者のその自覚を妨げるのである」

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「このように筋権主義の観点は常に人間と自然界の関係にかかわっているのである。それは人間の外界の自然とのかかわりだけでなく、人間の身体という内的自然とのかかわりについても言える。而して法律をはじめとする社会制度についても言えるのである」

「筋力において劣る者は科学技術のすべての分野にひとしなみに感謝と尊敬を捧げなければならないが、その中でも医学に対するそれが特段に意識されなければならない。これは私が医者だから言うのではない」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋力において劣る者は誰のおかげで生きていられるのかということを絶えず意識する、すなわち自問自答することを人として道義的に義務付けられる。人でありたいと思うなら」

「筋力において劣っているということは『人である』『人間である』ということについて不足があるということを自覚しなければならないということである。しかしこのことがまた筋力において劣る者にとっては難しいことなのである。筋力において劣る者は疾病や身体器質の物理的障害等の一部例外を除き、『人格遅滞児』であるが故に」

「筋力において劣る者は自国の指導者に対してはたとえそれがどんな人物であろうとも感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省を怠ってはならない」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による

 

「石川啄木は『友がみな我より偉く見ゆる日よ』とうたったが、筋力において劣る者はこのような精神においてそれを甘んじて受け入れて生きていくことを、人間である以前にいち生物の道徳として求められ義務付けられるのである。

これは生物として欠けるところ、不足なところに由来するのであるから、社会的な問題ではなく、自然界の厳しい掟の問題である

筋力において劣る者は『身の程を知って口を慎む』ということが、そうでない者以上に求められる」