「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

 

「更に読書にも同じことが言える。いや、むしろこれまで述べてきた諸々のこと以上に、読書にはその、それを行うことを物理的に可能にする身体能力条件という意味ではなく、社会的道徳的資格要件として一定以上の筋力を求められるのである。そうした社会的要求に見合う筋力を持たない者は本を読んではならない。他の仕事をせずに本を読む時間があるなら、その前にその時間を使ってそれが許される水準に達するまでただひたすら筋力鍛錬、筋力増進に勉め励まなければならない。

 

 

読書は、もちろん見かけ上、言い換えればただ字面を追う、あるいはそうして気ままにその意味を想像して思い浮かべるというだけのことなら、せいぜい生きていくのに最低限必要な筋力で済む。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

 

 

 

しかしそれは本来の意味の『読書』、『真の意味の読書』の猿真似にすぎず、万物の霊長たる人間のなすべきことではない。そのようなことは時間の浪費であり、『時は金なり』の観点からそれがいかに罪深いことかは既に述べた。

真の読書には『ものごとを判断する』場合と同様、実は意識するとしないとにかかわらず膨大な筋力を消費し続けているのである。

 

 

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

同時にここでもやはり『筋肉感覚』の問題がある。『筋力の劣等』は『筋肉感覚』の劣悪と歪みであり、他者への、すなわち社会的共感性、協調性、同調性の低劣、最悪の場合は欠如である。そうして行われた読書は当人の精神を歪め、歪んだ精神による言行は程度の差こそあれ、周囲に有形無形の害しか及ぼさない。

 

 

 

 

 

文字通り『百害あって一利なし』の読書となる。害あるとわかっていてそれを止めないということがあるだろうか。許されるだろうか。『悪をなす者を止めないのは悪をなしているのと同じだ』と古人は言ったではないか。『義を見てせざるは勇無きなり』と言うではないか。だからその域の筋力に達していない者が本を読んでいるのを見たら、それをやめさせて筋力を鍛えさせなければならないのである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

更に言うなら『生業(なりわい)』に必要ない読書はもちろん『贅沢(ぜいたく)』である。『時は金なり』の観点から言っても、その者の生業に必要ない本を読むならば、その者にあらゆよほどの『余裕』がなければならない。時間、また金銭をはじめとする経済、精神、そしてもちろん筋力である。そのすべてにおいて余裕がある者のみが己に生業に関係ない本を読むことを許される。そうでない者がそうしているのを見たら、これも直ちに止めて禁じなければならない。それがそれを知ってしまった者の社会的すなわち道徳的義務である。世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界」