「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

 

 

 

筋力の劣る者に『自分の意見を持つ』資格などない。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

それは、幕末明治の聖賢福澤諭吉先生が述べられたように、『自由』と『わがまま勝手』をはき違えてはならないからである。

筋力において劣る者は他者との『共感性』即ち『同調性』において劣ることが生物学的に自明である。なぜなら筋力において劣る者は当然『筋肉感覚』において劣っているからである。これは、外界に対する感覚が鈍いということを物語っている。即ち筋力において劣る者は本人の好むと好まざるとにかかわらず須く『内にこもる』。有り体に言えば『自分のことしか考えない、わがまま勝手な傾向』の性格とならざるを得ないのである。これはその筋力によってのみ判断される。当人がいくらその精神面の欠陥を隠し立てしようとしても、『筋力が劣る』という事実がそれを暴露してしまうのである。

福澤翁は『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』と言い、人の上下はただ学問をしているかどうかによってのみによると述べた。しかし、ここで誤解してはならないのはその『学問』の内容である。福澤翁は、それは西洋の学問のことであると言っているが、それは筋力がすでに十分な者にのみ当てはまるのである。それによって十分な筋肉感覚をもって一身独立、一国独立のために西洋文明を学ぶのは有益である。

 

 

 

だが、そうでない場合、即ちいまだ筋力の劣っている者は、『筋力増強』がまず最初に着手しなければならない『学問』となる。

そうして筋力がせめて人並みになってこそ『筋肉感覚』がようやく人並みとなり、『わがまま勝手』でなく『人を害せざる』自由を行使するための知識を得ることができるようになる、その前提となる身体条件が満たされるのである。

 

 

察するに、福澤翁は医学者でもあったのだから、この理がお分かりでなかったはずはない。おそらく、あまりにも当然自明のことであったが故に、あえて述べずに省略して煩瑣を避けられたのであろう。

しかし今や世は頽廃した末世となり果てた。

 

 

言わずもがなの常識は廃れて忘れ去られ、もはや『常識』ではなくなった。だからここにあえてこと改めてこのように述べなければならないのである。

 

 

『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、ただ人に上下あるは、己の筋力を強めんと努めざるか否かによる』と

福澤翁は、議論する前にはまずその議論の『標準』を定めなければならないと言い、その『標準』は西洋近代文明に置かれなければならないと述べたが。これもまたその自明の前提として『すべての個々人は議論に参加する資格要件として一定以上の筋力を有していなければならぬ』ということが省略されているのである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

なぜ議論の参加資格として一定以上の筋力が求められるのかと言えば、それはすでに述べたとおりである。即ち一定以上の筋力に裏づけられた筋肉感覚を持たない者は他者と論を交わすに足るに必要な『共感性』即ち『同調性』を持たないからである。それなのに、資格ある者同士の議論に口をさしはさむ、いや『割り込む』ならば、それは議論の『妨害』に他ならない。誰がそんなことを許すべきだと考えるだろうか?

それは時間の浪費であり、ベンジャミン・フランクリンの『時は金なり』という箴言に沿えば『財産の損壊』であり、また人間が限られた寿命を過ぎて戻らぬ時の流れの中で生きねばならないことを考えれば、そのようにして他者の時間を無為に削り、その人生の幾分かを空費せしめることは『緩慢な殺人』と言っても過言ではない、法律に反しなくても道義的犯罪、人道に対する罪なのである。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

このように、筋力の劣る者がそうでない者に関与することは、無益を通り越して有害となり、これこそ『健全な精神は健全な肉体に宿る』という格言の具体的例証なのである。

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