「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

 

「『リーダーとフォロワー』という関係を考える時、筋力において劣る者は絶対的にリーダーに対する意味でのフォロワーである。しかもそのフォロワーの中でもその状況における絶対的リーダーへの絶対的従属者というタイプのフォロワーである」

 

 

「筋力において劣る者は自分のリーダーを自分で選ぶことは許されない。その資格がなく、したがってその権利がない。それは筋力において劣っているからである」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

 

 

「筋力において劣っている者はその状況における絶対的リーダーを自分のリーダーとすることしか許されない。それを拒む資格がなく、したがってその権利がない。

 

 

 

 

 

絶対的リーダーはもちろん多数決によって決められるが、その選抜の過程はどうあれ、結果が正当であるかの判断基準の少なくとも一つは選ばれたそのリーダーの筋力による。だから筋力において劣っている者は次のように選択しなければならない。まず自分がリーダーに選ばれたら固辞しなければならない。不義だからである。

 

 

 

また自分以外の者で自分と同様に筋力において劣る者がリーダーに選ばれた激しく反対して排撃し、その就任を阻止しなければならない」

 

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

「筋力において劣る者は趣味嗜好も自分で選ぶことは許されない。必ず自分の絶対的リーダーが命ずるか少なくとも勧めるものを自分の趣味嗜好としなければならない。なぜなら再三述べてきたように筋力において劣る者は筋肉感覚が劣っているのであり、そのような者は自分の誤った感覚を信じて行う選択が必ず社会に有害な結果をもたらす。そうしてその者が社会に有害な結果をもたらすその選択は、結果としてその者自身にも有害な結果をもたらす。

 

 

なかでも筋力において劣る者が虚構の創作物を趣味嗜好とすることは、論外の言語道断で、あってはならないことである。なぜなら、たとえその作品が筋力に優れる者にとっては有益な滋養である場合としても、筋力において劣る者に摂取されると、心身にとって有害無益な病原体としかなり得ないからである、

更にその者自身がその病原体の培地となり、そこから蔓延する社会的害悪の起点となり、またいまだ健康健全だが筋力をはじめ精神にかかわる弱点、リスクを抱えた人々への感染拡大をもたらすのである。その害の規模はまさに想像を絶しており、表現のしようがないほどであり、『精神のパンデミック』である」

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋力において劣る者は『自分の意見』を持つ資格がなく、したがってその権利がない。筋力において劣っているということは筋肉感覚が劣っているということを意味している。筋肉感覚が劣っているということは

他者との共感性すなわち協調性すなわち同調性が劣っているということである。そうした者は他者を阻み害する意見しか持ち得ない。誰がそのようなことを許容できるだろうか。巣推したものに対しては、せいぜい、同じように社会的な共感性すなわち協調性すなわち同調性が劣っている者、すなわちその者と似た他の者を攻撃するように正しく方向づけ導いてやることしかできない。

そうして者どもが集まって己の誤った意見を声高に主張して正しい社会を歪んだ方向に進めることだけは絶対に阻止しなければならない」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

「筋力において劣る者は自然環境について発言してはならない。自然環境を正しく認識するとは、最も筋肉感覚を必要とする領域の一つである。筋力において劣る者は、だから自然環境については誤った認識しか持ち得ない。特に所謂『環境破壊』について語ろうとするなら自ら例えば命の危険を伴うような深山幽谷に分け入って生還するような能力をもってしなければ、即ち『探検家』『冒険家』でなければ自然環境については信頼するに足る見識を持つことはできない。

社会的に関心や影響度の高い分野であればあるほど正しい見識の発信が求められる。それは発信者が備えなければならない筋力がそれにつれて大きくなるということでもある。

逆に筋力において劣る者が許される範囲を越えて発言する分野の社会的関心や影高ければ高いほどその垂れ流す害毒も大きくなるのである」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「所謂『人間力』は必ず一定以上の筋力を要件とする。場合によってはその者の筋力と重なり一致する。更には筋力自体がその者の『人間力』である場合すらあるだろう。なぜなら『人間力』は『人望』としてしか現象しないからであり、またその『人望』自体がその者の『人間力』そのものである場合すらあるだろう。世界世界世界」

「この『筋力において劣る者は自分の意見を持つことを許されない』ということから様々な禁忌と義務が派生する。その一つは歴史認識、より広くは過去の出来事一般についての認識に関することであり、もう一つは法律の制定に関することである。

特に『過去の不祥事』については特にそうであり、筋力において劣る者が語ってはならないことである。それはひとえにその筋肉感覚が劣っているところから共感性すなわち協調性すなわち同調性すなわち社会性が劣っているということであり、そのような者が『過去についての記録や記憶』、中でも『史料』と呼ばれる者〔ママ〕を用いた『歴史』という公共の共有材を取り扱うことは許されないのである。なぜならそうした者は筋肉感覚において劣っているが故に共感性すなわち協調性すなわち同調性すなわち社会性が劣っているか甚だしくは欠如しており、そのような者は何を扱い用いても自分自身の感情に突き動かされるままに私利私欲わがまま勝手に費消し、またそうした動機から一人一身のみの主観に基づく否定的な感情から他者を害することも多い。言葉は刃物となり武器となるものだが、『歴史』なかでも『過去の不祥事』についてのそれそのは最たるものである。筋力において劣る者はそれを他者を害する武器としてしか用い得ないということが最初からわかっているのだから、これを取り扱わせてはならないのである。そうした者に教えなければならないのは『伝統的な宗教道徳』であり、それに基づいた日々の日常生活の一挙手一投足をいわば『儀式』として理由云々以前の『自明の習慣』として守らせることである。そうした者に『歴史』を教えるな。『儀式』を教えよ。書を読ませるな。歩かせよ。

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

同じことは法律についても言える。筋力において劣る者は協調性すなわち同調性において劣るかまたは自分一身の主観的感情に都合のよいルールしか発想しえない。そうした者に法律の制定はもちろん起草、また古今東西いかなる既往の法律への批判も許してはならない。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

それはその動機の価値観が信頼されず、自分一身の主観的感情に合致してそのためにのみ都合のよいルールしか発想し得ない。そうした者に法律の制定はもちろん起草、また古今東西いかなる既往の法律への批判も許してはならない。それは、その動機となる価値観が信頼されず、自分一身の感情的欲求充足のために他者を害するものでしかあり得ないからである。こうした者には法律について考えるということをさせず、現行の法律を『宗教道徳』として『儀式』として守らせねばならない。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

その『宗教道徳』の基準とは何か。それはその筋肉筋力において劣る者が置かれた状況におけるその者にとっての『世界歴史の儀式としての絶対的リーダー』が奉ずる、またはそのフォロワーに対して推奨する『宗教道徳』である。そしてその『宗教道徳』について『考える』こともまたしてはならない。あくまで『儀式』としてその勧める具体的行動を忠実に日々実践実行してそれをリーダーの別名あるまで反復し、またその行動の変更を命じられたら躊躇なく変えなければならない。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

つまり筋力において劣る者にとっては『法律』ではなく『自分にとっての絶対的リーダー』からの命令のみが実在しているのである。こうしたことから『民主主義』なかでも『議会制民主主義』の基礎が、参政権を与えられる国民の筋力に置かれていることが再認識されなければならない。これはあまりにも自明のことであるが故に意識されず念頭から去り、その結果多くの人々の脳裡から忘却されるに至ったのであるが、改めて想起されねばならないのである。世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史世界歴史世界歴史儀式世界歴史世界歴史すなわち社会性世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史界って世界『』世界過去世界過去世界世界世界」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「他方においてかつて金権主義と強権主義の時代において筋力の資格を有している人々、すなわち身体的条件から認められる文字通りの『天賦人権』を有しているにもかかわらず、その権力の行使を強権や金権によって阻まれた人々が多くいたことは確かに残念なことであった。而してここにこそ所謂『近代的国民国家』が人間の自然的本性に最も合致した政治制度である所以があるのである。世界歴史」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋力において劣る者は職業や所有物の選択においてもその者の絶対的リーダーの選択に従わねばならない」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋力において劣る者に対する自己選択権の制限ないしは禁止はその者に死ねと命ずるものではない。逆だ。筋力において劣る者は必ず自分にとっても有害な選択をするが故に、その者が少なくとも身体的に生存しようとするなら、その者自身の死につながる誤った選択を回避するために、必ずその者自身で選び取った選択肢は自分で誤りと判断し、自分にとっての絶対的リーダーの選んだ選択肢を実際の選択として選び取らねばならないのである」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

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