「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

 

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

「一匹の怪物が地球をのし歩いている。筋権主義という怪物である。

外国の侵略や内乱に際して自らの腕力でこれを排除するのに貢献する自信のない者たちは、この怪物に震え怯え、息を潜めている。この怪物の通り道を避けて歩き、この怪物を呼び寄せないようにその名を口にすることさえ憚っている。

 

 

 

 

 

 

↑外国の侵略や内乱に際して自らの腕力でこれを排除するのに貢献する自信のない者の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

この者たちは何に怯えているのか。外国の侵略や内乱にではない。革命を恐れているのだ。それは、人間が人間としての本来の姿に立ち戻る革命である。つまり全ての国民が生まれながらに軍人軍属として軍籍を得る国家である。それは国民の、すなわち人間の義務であり、すなわち不可欠の権利である。

 

 

人は言う。国家は人類が文明を発達させる過程で付随的に建設したものであると。

否!

国家、就中『国民国家』こそは、その体制の君主制と共和制の別を問わず、万物の霊長としての人間の生物的欲求、本能の環境適応の最も自然な帰結なのである。

 

 

何故かの者たちは最近一層怯えているのか。

それは、革命の秋(とき)が近づいているのを、弱い生物の本能で察知したからである。

すなわちかの者どもが怯えかえっていることそれ自体が我ら国民すなわち人間の革命が成就するのが近いことを証明している。かの者どもにとっての凶兆は、我ら国民すなわち人間にとっての福音である。

 

 

我々が人間すなわち国民であるとすればかの者どもは何か。かの者どもは何故に国民すなわち人間と呼ばれないのか。そう呼ばれるのに値しないからだ。

かの者どもは、人が須く生まれながらに軍人軍属となるための革命を避けるためには、むしろ内乱や外国の侵略やその他もろもろの災厄を望む。このようなモノを国民と呼べるだろうか。

否!断じて否である。

そして国民の名に値しないモノはまた人間の名にも値しない。

なぜなら先にも述べたように国民国家は人間の生物としての本能の帰結だからである。

そしてこのことは『富』、もっと有り体に言えば金(カネ)にも当てはまる。自国の危急に際してその防衛に資するという社会的、いや人間という生物種の一員としての義務を果たすことのできない者が、他に何をしたからと言って報酬に金銭を受け取ることができるだろうか?

金銭を受け取る者は、その時点でそれに値する身体能力を持っていることを証明してその証明書と引き換えにして初めてその職業的報酬の金銭を受け取ることが許されるのである。これもまた万物の霊長としての生物種の負っている道徳上の義務である。これを果たさない者を人間と呼ぶことはできず、したがって国民と呼ぶこともできない。また繰り返し述べるが、何処の国民でもないモノは人間と呼ぶことはできないのである。

その身体能力の最低限は「健康な生活を送るのに必要な最低限」では到底足りない。それは、『「人間」と呼ばれるには『国民』でなければならない』という基準から言って『国民すなわち人間』の域に達していない『人間の外見だが人間以下である動物』の怠惰な『我儘勝手』に阿るものである。

その基準は軍人が判定して『年齢に相応して国防に貢献できる』と認めるか否かでなければならない。

これに代表されるように人間すなわち国民、国民すなわち人間と認められるには年齢に応じて誰もが絶対に身につけていなければならない『携行技術』がある。それができて初めて『個性』とか『才能』とか言われる突出した能力が社会的に有用であると認められるのである。

そしてその携行技術であるか否かの基準はまず第一に『その年齢に応じて国防に貢献するのに必要か』に置かれなければならない。

統治機構という意味での国家が国民一人ひとりに対して負っている義務で最も重要なのは、その国民一人ひとりをその国にとって忠良な国防国民に教育育成することである。国家の一挙手一投足がそのための広義の育成教育活動でなければならない。

国家すなわち軍学校。

公職者すなわち教師であり軍事教官である。

だからこそ特に政治家や法律家は『先生』と呼ばれるのである。しかしどれほどの者がそのことを認識しているだろうか。況や『国防の教師』であるという点においてをや。

そうでなければ『正しい意味の国家』の名に値しない。

つまり未だに『正しい意味の国家』は実現されたことがない。

しかし人類はそのための発展段階の階段を着実に上ってきたのである。

人類の歴史は『国家という名の学校建設の歴史』に他ならない。

このような誰もが当たり前に承知していなければならないことが忘れられているとは何と嘆かわしいことか。