「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見されたか原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

 

宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

「カール・マルクスは、人類の歴史は『階級闘争の歴史』であったと述べた。その認識が妥当であるかはしばらくおくとして人類の歴史が『競争の歴史』であったことは何人(なんぴと)も否定すること能わざる事実と言えよう。誰がこれに異を唱えることができようか」

「而して人類の歴史が『階級闘争の歴史』であったとする認識と『競争の歴史』であったとする認識では、どこが共通しており、どこが異なっているであろうか」

「またその『競争が自由競争ではなかった、またそうあり得なかった』時代はいつか、また『自由競争が可能になり、また実現もされた』のはなぜか。また当該の時代において『自由競争が再び不可能になり、また可能であっても実現はされなかった』とすれば、それはなぜか」

「『競争』には勝敗、そして勝者と敗者がつきものである。筋権主義の観点においてはこれらのない歴史的事象は考えられない。ここに、筋権主義の歴史観において『歴史における勝者と敗者』が最も重要な『大きな主題』の一つとなる理由がある。而して筋権主義においてはとりわけ『歴史における敗者』について学ぶことを重視するが、その理由は何か」