「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見されたか原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

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「見せるための筋肉(筋力)と見せるための道徳」

「〔20230813〕筋権主義者は見せるための筋肉を可能な限り発達させなければならない。それはなぜか」

 

 

「筋肉、そして『筋力のパフォーマンス』は『可視化された道徳』、目に見える形での『道徳』そのものの表現となり得る。このことはいろいろなことに繋がっているし、いろいろなことの要因になっている」

 

 

「したがって一定以上の筋力を持つ者は人類即ち『諸国民』の『道徳の師範』となる義務を負う。それは、それが可能なのは一定以上の筋力を持つ者に限られるからである。その者たち以外にないからである。

 

 

道徳なき筋力は轡(くつわ)なき馬の如し、しかし筋力なき道徳は『あり得ない』のでああり、そんなことを口にするのはまさに文字通りの『ナンセンス』!言葉遊びにすぎない!歌の文句に言う『暗愚の想定、ただの幻想』。そして先にも述べたように時間の浪費は寿命の浪費、即ち生命の浪費であり、そんなことを言ったり考えたりするのは『緩慢な自殺』であり、他者にそれを強いるとすれば『緩慢な殺人』である」

 

 

「〔20230821〕一定以上の筋力を持たない者、すなわち『筋力劣者』は、その自覚がないためか、またはそれ以外の理由からか、しばしば勘違いをする。その一つは、一定以上の筋力を持つ者にだけ当てはまることを、自分にも当てはまると当然のように、甚だしくは無意識の前提として考えることである。自分の社会的、乃至は人間関係上の許される権利の範囲、また人生上の目標や課題の設定、そして道徳や哲学などについてである。

 

 

 

 

また筋力劣者は発言を許される範囲が一定以上の筋力を持つ者よりも道徳的に狭い。より大きな制限を受けるということはこれまでも言葉を変えて述べてきたところである。それは一定以上の筋力を持つ者の時間、即ち寿命を無駄にしない、すなわち浪費しないためである」

 

 

「〔20230824〕身体運動(エクササイズ)、特にその体系化されたものとしての『スポーツおは、殺生の禁忌が戦時よりも強められた泰平の世の今日において文字通り『現代の武芸』」であり、『現代の武士道』そのものである。

 

したがってその担い手としての運動選手は俗に言われている以上にまさに文字通り言葉そのものの意味において『現代の武士』『現代の侍』である。

そのことは『運動選手の責任感』と『気づかい』『思いやり』『絶やさぬ笑顔』に最もよく表れている」

「これはスポーツが現代において『道徳そのものであり、宗教そのものであり、それらの教育そのものでもある』ことを物語っている。

 

 

なぜなら新渡戸稲造の『武士道』によれば、武士道は日本における『道徳』であり『宗教』であり、またそれらの『教育』でもあるという旨のことを述べているからである」

「『体育教育』こそが『道徳教育』そのものである」

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

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