「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

 

「『暴力』も『怒り』と同様である。

 

 

『暴力』も場合によっては一つの権利であるが、しかしその場合でもそれを行使することが許されるのは一定以上の筋力を持つ者のみである。その場合、その理由は『怒り』の場合と同じである。許される暴力とは多くの場合『怒り』の感情の身体的表現であり、またそもそも怒りという感情そのものが広義の暴力であるからだ。なぜならば」

 

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何ものにもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

 

 

 

「許される暴力の一つは『愛する者を奪われた者』がその原因となった者に向ける暴力である。しかしその場合でもその暴力を行使する者は一定以上の筋力を持っていなければならない。これは国家に対して刑罰という名の暴力の行使を請求する者にも当てはまる」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

「そして最も本質的な論点としてすべての『権力』もまた『筋力』にその源泉がなければならない」

「筋権主義の哲学によって人力と手仕事の日々を送る人々とその上に立って金権主義によって全力で贅を凝らした祭りの日々を送る人々という『社会の二重構造』が歴史の中で繰り返されてきた。これはなぜか。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

 

「ノストラダムスの予言した『恐怖の大王』とはインターネットのことである。

恐怖の大王が『空から来る』とは通信衛星やGPSなど、インターネットの運営に用いられる人工衛星システムを指している。

しかしインターネットが悪なのではない。『恐怖』でもなく『大王』ですらない。とりわけそれを実現した人々の『手仕事』は言葉そのままの意味において『偉大』と言うしかない。

『悪』であり『恐怖の大王』なのはそれに便乗してそれをただ一方的に消費し、労せずして我欲のみを満たそうとする者どもの『心』だ。この点においてノストラダムスは間違えた。少なくとも誤解を招いた。『恐怖の大王』は空から来るのではなく人の心から来るのだ。

それが何によって害をもたらすのかと言えば、核兵器でも自然破壊でもなく『インターネットによる我欲の充足の欲求』がその者自身の心を縛る『内なる独裁者』として恐怖をもたらすことが問題なのである。それが人を操り突き動かすことが幾百千万数多の実害を世に放つことになったのである。

而して『マルスがほどよく統治する』とは、『軍』のみがその暴走を止め、正しい生存の道へ導くことができるという意味なのである。この点についてはノストラダムスは全く正しかった」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「女こそ将来の筋権主義体制の主要な担い手となるべき社会集団である。それは、女の歴史は手仕事と人力による労働の時代が男よりもはるかに長く続いたからである。それにより女は『筋権主義革命』の担い手として男よりはるかに成熟しており、大きな革命的力量を有しているのである。

しかし女は長く抑圧されてそれを自覚する機会を狭められてきた。したがって大多数の女は、実際に『革命』の担い手となるためには、先覚者の領導に従うことによって覚醒しなければならない。この先覚者に男が多いのは、現在の歪んだ旧制度の制約のせいで避けることができない。

しかし女たちの筋権主義への覚醒の連鎖反応は、いったん始まればたちまち全世界を覆いつくすであろう。そして覚醒した女たちがいまだ目覚めぬ蒙昧な男どもを鞭打って否応なく目覚めさせることになるだろう」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「したがってそこに至る筋権主義の発展過程の観点から見た人類の歴史は、一つには『女の歴史』として記述されなければならないのである」

「筋権主義の観点からは女にこそ『士道』『武道』『武士道』教育の徹底が必要だったのであり、仏教は釈迦による開教当時からそのように機能する可能性を内包していたのである。釈迦ら初期の仏教指導者が長らくそれに気づかず、僧職から女を排除していたのはかえすがえすも残念なことである。この失敗がなければ人類は筋権主義的に実際の歴史よりもはるかに速く発展していたであろう」

「人間を万物の霊長たらしめる科学技術の発展が、将来『男も出産する』ことを可能ならしめ、同時にまた筋力の成長発展が導く理性が筋権主義体制を確立せしめる。この二つが相伴って両輪となった社会では男女にかかわらず『社会の必要に応じて産み、能力ある者が育てる』ことが可能になるのである。

更にこの正しい方向に沿って発展が進めばその時こそ『個人の欲求に応じて産み育てる』ことが全面的に許される。なぜならその時には筋権主義によって十分に成熟した社会となっており、そこではすべての個人が老若男女問わず儒教的に見た老成、晩成、すなわち『思いのままに振る舞って則を越えない』ようになっているからである」

 

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「こうした女と同様に筋権主義革命の担い手の地位を占めるのは『奴隷』である。ないしは名目は違っても事実上『奴隷』として取り扱われている人々である。その理由は女の場合とある程度重なっている。もっとも女はしばしば女という理由で、時には名実ともに、時には名目は違っても事実上は奴隷として取り扱われてきたのだが」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

「筋権主義とは、『力』についての観察と実験、そしてその論者の個人的経験に基づく哲学、すなわち現実認識の方法論に他ならない。従ってこれを、『力』についての科学哲学、及びそれに基づく歴史哲学と言ってもよい。ただしそれは一定の具体的歴史像を伴っている」

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

「筋権主義の観点から見るまでもなく、財政は軍事に次ぐ『第二の国防』である。而して十分な国防費を確保するための要諦は、社会保障費の削減である。そのためには国民をして『医療に拠らざる健康増進』に取り組ましめることが不可欠であり急務である。それこそ祖国防衛のために国民一人残らず課される義務である。このために最も有用なのが筋権主義なのである。

これが理解されるなら、そのために国民一人一人が自ら進んでまず第一に己の筋力の鍛錬増強に勤しまなければならないのは自明である」筋権

 

 

↑『筋力に劣る者』の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

 

 

 

 

」(佐和山清太郎『筋権党宣言』)