「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

 

中略

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「許される暴力の一つは『愛する者を奪われた者』がその原因となった者に向ける暴力である。しかしその場合でもその暴力を行使する者は一定以上の筋力を持っていなければならない。これは国家に対して刑罰という名の暴力の行使を請求する者にも当てはまる」

「そして最も本質的な論点としてすべての『権力』もまた『筋力』にその源泉がなければならない」

 

 

 

「女こそ将来の筋権主義体制の主要な担い手となるべき社会集団である。それは、女の歴史は手仕事と人力による労働の時代が男よりもはるかに長く続いたからである。それにより女は『筋権主義革命』の担い手として男よりはるかに成熟しており、大きな革命的力量を有しているのである。

しかし女は長く抑圧されてそれを自覚する機会を狭められてきた。したがって大多数の女は、実際に『革命』の担い手となるためには、先覚者の領導に従うことによって覚醒しなければならない。この先覚者に男が多いのは、現在の歪んだ旧制度の制約のせいで避けることができない。

しかし女たちの筋権主義への覚醒の連鎖反応は、いったん始まればたちまち全世界を覆いつくすであろう。そして覚醒した女たちがいまだ目覚めぬ蒙昧な男どもを鞭打って否応なく目覚めさせることになるだろう」

「したがってそこに至る筋権主義の発展過程の観点から見た人類の歴史は、一つには『女の歴史』として記述されなければならないのである」

「筋権主義の観点からは女にこそ『士道』『武道』『武士道』教育の徹底が必要だったのであり、仏教は釈迦による開教当時からそのように機能する可能性を内包していたのである。釈迦ら初期の仏教指導者が長らくそれに気づかず、僧職から女を排除していたのはかえすがえすも残念なことである。この失敗がなければ人類は筋権主義的に実際の歴史よりもはるかに速く発展していたであろう」

「人間を万物の霊長たらしめる科学技術の発展が、将来『男も出産する』ことを可能ならしめ、同時にまた筋力の成長発展が導く理性が筋権主義体制を確立せしめる。この二つが相伴って両輪となった社会では男女にかかわらず『社会の必要に応じて産み、能力ある者が育てる』ことが可能になるのである。

更にこの正しい方向に沿って発展が進めばその時こそ『個人の欲求に応じて産み育てる』ことが全面的に許される。なぜならその時には筋権主義によって十分に成熟した社会となっており、そこではすべての個人が老若男女問わず儒教的に見た老成、晩成、すなわち『思いのままに振る舞って則を越えない』ようになっているからである」

「こうした女と同様に筋権主義革命の担い手の地位を占めるのは『奴隷』である。ないしは名目は違っても事実上『奴隷』として取り扱われている人々である。その理由は女の場合とある程度重なっている。もっとも女はしばしば女という理由で、時には名実ともに、時には名目は違っても事実上は奴隷として取り扱われてきたのだが」

「筋権主義とは、『力』についての観察と実験、そしてその論者の個人的経験に基づく哲学、すなわち現実認識の方法論に他ならない。従ってこれを、『力』についての科学哲学、及びそれに基づく歴史哲学と言ってもよい。ただしそれは一定の具体的歴史像を伴っている」

「筋権主義の観点から見るまでもなく、財政は軍事に次ぐ『第二の国防』である。而して十分な国防費を確保するための要諦は、社会保障費の削減である。そのためには国民をして『医療に拠らざる健康増進』に取り組ましめることが不可欠であり急務である。それこそ祖国防衛のために国民一人残らず課される義務である。このために最も有用なのが筋権主義なのである。

これが理解されるなら、そのために国民一人一人が自ら進んでまず第一に己の筋力の鍛錬増強に勤しまなければならないのは自明である」筋権

 

「更に読書にも同じことが言える。いや、むしろこれまで述べてきた諸々のこと以上に、読書にはその、それを行うことを物理的に可能にする身体能力条件という意味ではなく、社会的道徳的資格要件として一定以上の筋力を求められるのである。そうした社会的要求に見合う筋力を持たない者は本を読んではならない。他の仕事をせずに本を読む時間があるなら、その前にその時間を使ってそれが許される水準に達するまでただひたすら筋力鍛錬、筋力増進に勉め励まなければならない。

読書は、もちろん見かけ上、言い換えればただ字面を追う、あるいはそうして気ままにその意味を想像して思い浮かべるというだけのことなら、せいぜい生きていくのに最低限必要な筋力で済む。

しかしそれは本来の意味の『読書』、『真の意味の読書』の猿真似にすぎず、万物の霊長たる人間のなすべきことではない。そのようなことは時間の浪費であり、『時は金なり』の観点からそれがいかに罪深いことかは既に述べた。

真の読書には『ものごとを判断する』場合と同様、実は意識するとしないとにかかわらず膨大な筋力を消費し続けているのである。

同時にここでもやはり『筋肉感覚』の問題がある。『筋力の劣等』は『筋肉感覚』の劣悪と歪みであり、他者への、すなわち社会的共感性、協調性、同調性の低劣、最悪の場合は欠如である。そうして行われた読書は当人の精神を歪め、歪んだ精神による言行は程度の差こそあれ、周囲に有形無形の害しか及ぼさない。

文字通り『百害あって一利なし』の読書となる。害あるとわかっていてそれを止めないということがあるだろうか。許されるだろうか。『悪をなす者を止めないのは悪をなしているのと同じだ』と古人は言ったではないか。『義を見てせざるは勇無きなり』と言うではないか。だからその域の筋力に達していない者が本を読んでいるのを見たら、それをやめさせて筋力を鍛えさせなければならないのである。

更に言うなら『生業(なりわい)』に必要ない読書はもちろん『贅沢(ぜいたく)』である。『時は金なり』の観点から言っても、その者の生業に必要ない本を読むならば、その者にあらゆよほどの『余裕』がなければならない。時間、また金銭をはじめとする経済、精神、そしてもちろん筋力である。そのすべてにおいて余裕がある者のみが己に生業に関係ない本を読むことを許される。そうでない者がそうしているのを見たら、これも直ちに止めて禁じなければならない。それがそれを知ってしまった者の社会的すなわち道徳的義務である。世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界」

「『リーダーとフォロワー』という関係を考える時、筋力において劣る者は絶対的にリーダーに対する意味でのフォロワーである。しかもそのフォロワーの中でもその状況における絶対的リーダーへの絶対的従属者というタイプのフォロワーである」

「筋力において劣る者は自分のリーダーを自分で選ぶことは許されない。その資格がなく、したがってその権利がない。それは筋力において劣っているからである」

「筋力において劣っている者はその状況における絶対的リーダーを自分のリーダーとすることしか許されない。それを拒む資格がなく、したがってその権利がない。

絶対的リーダーはもちろん多数決によって決められるが、その選抜の過程はどうあれ、結果が正当であるかの判断基準の少なくとも一つは選ばれたそのリーダーの筋力による。だから筋力において劣っている者は次のように選択しなければならない。まず自分がリーダーに選ばれたら固辞しなければならない。不義だからである。

また自分以外の者で自分と同様に筋力において劣る者がリーダーに選ばれた激しく反対して排撃し、その就任を阻止しなければならない」

「筋力において劣る者は趣味嗜好も自分で選ぶことは許されない。必ず自分の絶対的リーダーが命ずるか少なくとも勧めるものを自分の趣味嗜好としなければならない。なぜなら再三述べてきたように筋力において劣る者は筋肉感覚が劣っているのであり、そのような者は自分の誤った感覚を信じて行う選択が必ず社会に有害な結果をもたらす。そうしてその者が社会に有害な結果をもたらすその選択は、結果としてその者自身にも有害な結果をもたらす。

なかでも筋力において劣る者が虚構の創作物を趣味嗜好とすることは、論外の言語道断で、あってはならないことである。なぜなら、たとえその作品が筋力に優れる者にとっては有益な滋養である場合としても、筋力において劣る者に摂取されると、心身にとって有害無益な病原体としかなり得ないからである、

更にその者自身がその病原体の培地となり、そこから蔓延する社会的害悪の起点となり、またいまだ健康健全だが筋力をはじめ精神にかかわる弱点、リスクを抱えた人々への感染拡大をもたらすのである。その害の規模はまさに想像を絶しており、表現のしようがないほどであり、『精神のパンデミック』である」

「筋力において劣る者は『自分の意見』を持つ資格がなく、したがってその権利がない。筋力において劣っているということは筋肉感覚が劣っているということを意味している。筋肉感覚が劣っているということは

他者との共感性すなわち協調性すなわち同調性が劣っているということである。そうした者は他者を阻み害する意見しか持ち得ない。誰がそのようなことを許容できるだろうか。巣推したものに対しては、せいぜい、同じように社会的な共感性すなわち協調性すなわち同調性が劣っている者、すなわちその者と似た他の者を攻撃するように正しく方向づけ導いてやることしかできない。

そうして者どもが集まって己の誤った意見を声高に主張して正しい社会を歪んだ方向に進めることだけは絶対に阻止しなければならない」

「筋力において劣る者は自然環境について発言してはならない。自然環境を正しく認識するとは、最も筋肉感覚を必要とする領域の一つである。筋力において劣る者は、だから自然環境については誤った認識しか持ち得ない。特に所謂『環境破壊』について語ろうとするなら自ら例えば命の危険を伴うような深山幽谷に分け入って生還するような能力をもってしなければ、即ち『探検家』『冒険家』でなければ自然環境については信頼するに足る見識を持つことはできない。

社会的に関心や影響度の高い分野であればあるほど正しい見識の発信が求められる。それは発信者が備えなければならない筋力がそれにつれて大きくなるということでもある。

逆に筋力において劣る者が許される範囲を越えて発言する分野の社会的関心や影高ければ高いほどその垂れ流す害毒も大きくなるのである」

「所謂『人間力』は必ず一定以上の筋力を要件とする。場合によってはその者の筋力と重なり一致する。更には筋力自体がその者の『人間力』である場合すらあるだろう。なぜなら『人間力』は『人望』としてしか現象しないからであり、またその『人望』自体がその者の『人間力』そのものである場合すらあるだろう。世界世界世界」

「この『筋力において劣る者は自分の意見を持つことを許されない』ということから様々な禁忌と義務が派生する。その一つは歴史認識、より広くは過去の出来事一般についての認識に関することであり、もう一つは法律の制定に関することである。

特に『過去の不祥事』については特にそうであり、筋力において劣る者が語ってはならないことである。それはひとえにその筋肉感覚が劣っているところから共感性すなわち協調性すなわち同調性すなわち社会性が劣っているということであり、そのような者が『過去についての記録や記憶』、中でも『史料』と呼ばれる者〔ママ〕を用いた『歴史』という公共の共有材を取り扱うことは許されないのである。なぜならそうした者は筋肉感覚において劣っているが故に共感性すなわち協調性すなわち同調性すなわち社会性が劣っているか甚だしくは欠如しており、そのような者は何を扱い用いても自分自身の感情に突き動かされるままに私利私欲わがまま勝手に費消し、またそうした動機から一人一身のみの主観に基づく否定的な感情から他者を害することも多い。言葉は刃物となり武器となるものだが、『歴史』なかでも『過去の不祥事』についてのそれそのは最たるものである。筋力において劣る者はそれを他者を害する武器としてしか用い得ないということが最初からわかっているのだから、これを取り扱わせてはならないのである。そうした者に教えなければならない

のは『伝統的な宗教道徳』であり、それに基づいた日々の日常生活の一挙手一投足をいわば『儀式』として理由云々以前の『自明の習慣』として守らせることである。そうした者に『歴史』を教えるな。『儀式』を教えよ。書を読ませるな。歩かせよ。

同じことは法律についても言える。筋力において劣る者は協調性すなわち同調性において劣るかまたは自分一身の主観的感情に都合のよいルールしか発想しえない。そうした者に法律の制定はもちろん起草、また古今東西いかなる既往の法律への批判も許してはならない。

それはその動機の価値観が信頼されず、自分一身の主観的感情に合致してそのためにのみ都合のよいルールしか発想し得ない。そうした者に法律の制定はもちろん起草、また古今東西いかなる既往の法律への批判も許してはならない。それは、その動機となる価値観が信頼されず、自分一身の感情的欲求充足のために他者を害するものでしかあり得ないからである。こうした者には法律について考えるということをさせず、現行の法律を『宗教道徳』として『儀式』として守らせねばならない。

その『宗教道徳』の基準とは何か。それはその筋肉筋力において劣る者が置かれた状況におけるその者にとっての『世界歴史の儀式としての絶対的リーダー』が奉ずる、またはそのフォロワーに対して推奨する『宗教道徳』である。そしてその『宗教道徳』について『考える』こともまたしてはならない。あくまで『儀式』としてその勧める具体的行動を忠実に日々実践実行してそれをリーダーの別名あるまで反復し、またその行動の変更を命じられたら躊躇なく変えなければならない。

つまり筋力において劣る者にとっては『法律』ではなく『自分にとっての絶対的リーダー』からの命令のみが実在しているのである。こうしたことから『民主主義』なかでも『議会制民主主義』の基礎が、参政権を与えられる国民の筋力に置かれていることが再認識されなければならない。これはあまりにも自明のことであるが故に意識されず念頭から去り、その結果多くの人々の脳裡から忘却されるに至ったのであるが、改めて想起されねばならないのである。世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史世界歴史世界歴史儀式世界歴史世界歴史すなわち社会性世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史界って世界『』世界過去世界過去世界世界世界」

「他方においてかつて金権主義と強権主義の時代において筋力の資格を有している人々、すなわち身体的条件から認められる文字通りの『天賦人権』を有しているにもかかわらず、その権力の行使を強権や金権によって阻まれた人々が多くいたことは確かに残念なことであった。而してここにこそ所謂『近代的国民国家』が人間の自然的本性に最も合致した政治制度である所以があるのである。世界歴史」

「筋力において劣る者は職業や所有物の選択においてもその者の絶対的リーダーの選択に従わねばならない」

「筋力において劣る者に対する自己選択権の制限ないしは禁止はその者に死ねと命ずるものではない。逆だ。筋力において劣る者は必ず自分にとっても有害な選択をするが故に、その者が少なくとも身体的に生存しようとするなら、その者自身の死につながる誤った選択を回避するために、必ずその者自身で選び取った選択肢は自分で誤りと判断し、自分にとっての絶対的リーダーの選んだ選択肢を実際の選択として選び取らねばならないのである」

世界世界()筋力()筋力()()()

 

「筋力において劣る者には、そうでない者には求められない程度の『自省・自戒』が求められる。これは筋力において劣る者に求められる『感謝・尊敬』と関係している」

「筋力において劣る者には自己の過去の否定的な事象について常にその原因を自分に嫁することが求められるし、実際にそうしなければならない。それは事実そうであるかではなく、道徳的な徳目上の理由からである。また事実として他に原因がある場合ではあっても、筋力において劣る者は、それを追及してはならないのはもちろん、それについて口にしてもならない。ヴィトゲンシュタインの『語ることのできないことについて語ってはならない』というのはこういう場合のことも言うのである。こうした道徳上の徳目には科学的な根拠がある。それは、筋力において劣る者が課される他の権利制限と同じく、筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しており、そうした状態の者が過去を振り返って自分及び自分を含む集団の過去の不祥事、否定的な事象の原因を考える場合に、自分以外の他者に原因があるという方向に思考が向くときには必ず自分一人のわがまま勝手な感情を満たそうとする衝動によって自ら認識を歪めることから免れることはできないからである。

そして過去の自分の失敗への対案も、絶対的なフォロワーであらざるを得ない筋力劣者は、筋力優者、その中でもその状況での自分にとっての絶対的リーダーに従わねばならない」

「筋力において劣る者は魯迅の作中の『阿Q』であることを道徳的に余儀なくされる」

「筋権主義は強権主義と金権主義の肯定的側面の弁証法的発展の帰結であり、その起源の一端は河川の治水にある」

「筋力において劣る者は、そうでない者が嘘をつくことを許される状況においても、嘘をつくことを許されない。なぜなら筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しており、したがってその者がつく嘘の時と相手、状況以前に、つまりそれらがどうであれ、そのつく嘘の内容においてわがまま勝手で、自分の安楽快楽以外を考慮せず、他者を害する歪みから免れることができないからである」

「筋力年齢と精神年齢は相関しており、特に生後から筋力が上昇していく間は比例している」

「筋力が子供のままの者は、疾病や身体器質の物理的障害等の一部例外を除き、精神も子供のままである」

「一定以上の筋力を持つ者は互いに切磋琢磨しながら、時代に合わなくなった強権主義と金権主義による圧迫を拒むために共に闘う権利を有する。それと同じように筋力において劣る者は自分たちの不正な権利要求を互いに抑止し合わなければならない。それだけが、筋力において劣る者が持つことを許される『社会的・政治的な思想』であり、『社会的・政治的選択肢』である」

「礼儀作法の立ち居振る舞いの所作は筋力鍛錬のトレーニング、訓練である。然るが故に

人は相手の礼儀作法の所作からその筋力を、そしてそれによって相手の精神年齢を推し量るのである」

「筋力において劣る者は、そうでない人々への感謝と尊敬、そして自分がそれに欠けたり不足したり反したりするところがないか常に反省しなければならない。孔子の『日々三省』がこれに当たっている。

なぜそうしなければならないのか。

それは筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しているからだけではない。更にそれ以前に筋力において不足、更に欠如があるということはそれだけですでに自然界での生存の必要条件を満たしていないということだからである。

つまりそのような者が生きているということはそれ自体がそうでない者に助けられて生きていることの間接的証明なのである。

それは筋力において劣る者はそうでない者に必ず負担をかけているということであり、筋力において劣る者にとって『耐え難い』、更には『耐えられない』労力をそうでない人々に委託外注して負担を外部化し、自らの負担を軽減して過労による即死を回避しているのである。

その代わり、その負担を引き受ける人々は、それを引き受けなければ自己の生存可能性の拡張をはじめ、自分のために使うことのできる時間と労力を、筋力において劣る者が即死しないようにするために使うという自己犠牲を果たしているのである。

ここでは筋力において劣る者に対してそうせずに潔く死を甘受せよと言っているのではない。ただ、このことを自覚し、感謝と尊敬と反省の営みを倦まず弛まず続けなければならないと言うのである。

また、特に近代以降に顕著なことであるが、筋力において劣る者は科学技術に助けられて生命を維持している。したがって筋力において劣る者は自分を助けてくれている無数の個人及び人間集団への感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省しなければならないだけでなく、自分の生存を支えてくれている科学技術自体、またその創造者や過去現在未来にわたってその恩恵の持続と発展を支える人々にも感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省しなければならないのである。

だから筋力において劣る者は科学技術を批判してはならないことはもちろん、それを『突き放して』あたかもその上に立って見るようなことも人として道徳的に許されない。科学技術によりすがりよりかかって生きており、そうせずには露命をつなぐことのできないそのあり方から言って人としての道義にもとるからである。『人でなし』の名に値する。

しかしながら筋力において劣る者は、まさに筋力が劣っていることそれ自体が原因となってそれを自覚することは困難を極める。筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如しているからである。それがその者のその自覚を妨げるのである」

「このように筋権主義の観点は常に人間と自然界の関係にかかわっているのである。それは人間の外界の自然とのかかわりだけでなく、人間の身体という内的自然とのかかわりについても言える。而して法律をはじめとする社会制度についても言えるのである」

「筋力において劣る者は科学技術のすべての分野にひとしなみに感謝と尊敬を捧げなければならないが、その中でも医学に対するそれが特段に意識されなければならない。これは私が医者だから言うのではない」

「筋力において劣る者は誰のおかげで生きていられるのかということを絶えず意識する、すなわち自問自答することを人として道義的に義務付けられる。人でありたいと思うなら」

「筋力において劣っているということは『人である』『人間である』ということについて不足があるということを自覚しなければならないということである。しかしこのことがまた筋力において劣る者にとっては難しいことなのである。筋力において劣る者は疾病や身体器質の物理的障害等の一部例外を除き、『人格遅滞児』であるが故に」

「筋力において劣る者は自国の指導者に対してはたとえそれがどんな人物であろうとも感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省を怠ってはならない」

「石川啄木は『友がみな我より偉く見ゆる日よ』とうたったが、筋力において劣る者はこのような精神においてそれを甘んじて受け入れて生きていくことを、人間である以前にいち生物の道徳として求められ義務付けられるのである。

これは生物として欠けるところ、不足なところに由来するのであるから、社会的な問題ではなく、自然界の厳しい掟の問題である

筋力において劣る者は『身の程を知って口を慎む』ということが、そうでない者以上に求められる」

「筋力において劣る者、すなわち『筋力劣者』は筋肉感覚において劣っているか、甚だしくは欠如しているため、自分自身を正しく認識することができない。またそのこと自体を認識できない。すなわち筋力劣者は自分が自分自身を知らないということを知らない。

ソクラテスはアポロン神殿の神託の名のもとに『自分自身を知れ』と自分に課したが、彼がここに探求の余地を、またそこに最も優先すべき課題があることを見いだせたのは、彼が当時のレスリングを能くする筋骨隆々たる偉丈夫だったからである。

とまれ、然るが故に筋力劣者は自分自身について正しい選択をすることができない。なぜなら、あらゆる選択には、その選択という判断を行うために、それに先立って、つまりそれをする前に、その判断の結果を予想する、つまりその未来像を思い描くための材料となる情報が必要だからである。

筋力劣者は自分自身を正しく認識できず、そればかりか『自分が自分自身を正しく知らないということも知らない』ので、必要な情報を持つことができないのである。

ユングは『常に間違った選択をしてしまう人』を『ピッチフォーゲル』と呼び、『いつも必ず間違ったほうの足を踏み出してしまう人』と説明したが、筋力劣者が自分自身について自分で行う選択判断がこれに当たる。そして筋力劣者が一定以上の筋力を持つ者から指示されずに行う一挙手一投足がすべてこれに当たり、須く失敗する運命にある。

それは当人にとって不幸であり、したがってそうしなければならない場合があるということ自体がそもそも不幸である。またそれは、周囲に影響を及ぼす行為である場合には当然周囲にとっても不幸であり、したがってそうしなければならない場合があるということ自体が周囲にとって不幸である。

したがってこうした不幸の連鎖を最小限にとどめるために、周囲に影響を及ぼす行為について筋力劣者には自分で選択判断させないようにしなければならない。また代わりに別の筋力劣者が選択判断してやるということも避けなければならない。なぜなら筋力劣者は自分自身について正しく認識できないだけでなく、その理由である筋肉感覚の劣弱、甚だしくは欠如のために、それ以外の認識もくまなくすべてにおいて信頼できないからである。筋力劣者の代わりに選択判断を務める者は必ず一定以上の筋力を持つ者でなければならない」

「筋力劣者が自分自身についての選択判断で成功することがあったとすれば、それはその者の自分自身についての認識の正しさ、その正しい認識に根拠を持つものではないのである。偶然的要因の結果である。すなわちただ単に『運が良かった』のである」

「筋力劣者に、その者自身について委ねてはならない選択判断の代表的なものは所謂『人生の岐路』、ありていに言えばその節々の進路である。

義務教育を終えた後、進学か就職か、自分と違って一定以上の筋力を持つ者の助言に必ず耳を傾けなばならない。そして交際異性、配偶者の選択においては更に然りである。エリクソンの言う自己同一性の獲得は、筋力劣者においては一定以上の筋力を持つ者の助言に忠実に従った場合にのみ確実な成功を期待することができる。

それだけでなく、こうしたことは趣味嗜好、更に言えば日々の食事の選択にも当てはまる。更に所有する道具にも当てはまる」

「自分の怒りを自分で管理すること、すなわち『怒りの感情の自己管理』は、筋力において劣る者、すなわち『筋力劣者』が最も不得手とするところである。このことは、筋力劣者は自覚していないが、その周囲の人々は経験的によく知っている。これには生理学的な避けがたい原因理由がある。

すなわち怒りを自己管理するには自律神経のうち、いわばブレーキとなる副交感神経の活動を必要とするが、そのためには筋肉が活発に活動することが前提となるからである。それによってまずアクセルの交感神経の活動が活発化し、それに対する反射的な抑制として本能的な、つまり大脳、特にその前頭前野の理性的意思に拠らないという意味での『自律』活動として副交感神経が働き、感情の昂ぶり全体をまるごと抑える。これが、身体が『怒りを自己管理する』仕組み、メカニズムなのである。

しかし筋力劣者は筋力の水準が甚だしく低いか、甚だしくは欠如しているために、こうした身体の自然的機能による最も有効な方法をとることができない。副交感神経を刺激しようにも、その段階に至るほど筋肉を活動させることができないのである。

しかしその一方で、筋力劣者は『怒りを抑制できない代わりに、怒ること自体がない』のかと言えば、そうではない。

確かに、筋力劣者は筋力が劣っているが故に筋肉感覚において劣っているか、甚だしくは欠如しているため、自ら筋肉運動することによって自分を鼓舞して怒るということはない。しかしその代わりに、その共感性、すなわち協調性、すなわち同調性のなさからくる『わがまま勝手』な理由による自己防衛を理由として突然怒りを暴発させる。これは周囲からは理解されない。

それは一定以上の筋力を持つ者の筋肉感覚に根差す、すなわち健全な他者との共生を前提とした「生への欲求」に根差すものではない。外なる自然からも、身体という内なる自然からも切り離された『頭でっかちの怒り』である。これを命あるものの怒りと呼ぶことはできない。その者が自分で自分の中に作り出す『形のない機械』とでも呼ぶべきものである。

しかも筋力劣者は自分がこれを作り出したことを自覚することなく、それが作り出す暴力衝動に操られるように突き動かされ、結局のところ、非力な自分にも扱える刃物や銃器等々の道具を通じて他者に危害を加える。それによってその衝動的欲求を満足させるのである。

筋力劣者は自己の身体を高速で活発に活動させるだけの筋力を持たないために、全体に活動の速度が遅く、活動量そのものも少ない。そのため、『おとなしい』とみられがちである。しかし『怒りの感情の種子』はその内面にあり、その中に一定以上の筋力を持つ者が持たない性質のものが含まれる。そして筋力劣者は、筋力が劣っているというまさにそのこと自体のために、筋肉活動を通じた副交感神経の活動によってそれを抑制することができない。

こうしたことに加えて筋力劣者は筋肉感覚が劣っているか甚だしくは欠如しているためにこうしたことを自覚することができず、それに加えて同じ理由で『自分自身について正しい判断をするということができない』『常に間違ったほうの足を踏み出してしまう』者たちであるが故に、自分のわがまま勝手な怒りを事あるごとに暴発させてしまう宿命を負っている。怒りっぽい人、何かにつけて怒り出す人を『瞬間湯沸かし器』と言うが、筋力劣者はあまりに鈍重で怒ることなどあり得ないように見えるものが突如爆発するのは、その内面ですでにその前から秒読みカウントダウンが進んでいる可能性があり、それを外部からは不可知であるが故に『時限爆弾』と呼ぶべきである。

筋力は怒りを抑制するブレーキとなるものだが、筋力劣者は利きが悪いか甚だしくは欠如しており、ただ『わがまま勝手』すなわち『自我が肥満症』という『怒りへのアクセルの故障による暴走』だけがあるのである。しかもその自覚がないが故にしばしば自分自身に対して『ブレーキのつもりでアクセルを踏む』、自分自分自分が自分 自分自分が自分自分筋力自分『』『』怒り」筋力

自分が自分 自分自分が自分自分筋力自分『』『』怒り」筋力

「『健康』の維持を前提とした幸福追求のためにはあえて安楽に背を向けて身体に負荷をかけなければならない。このことは遠く昭和の初期から知られていた。その頃、ラジオ体操を普及させようとパンフレットが出されたが、そこにはこのように書かれていた。

『昔から「健康は幸福の母」といわれるように、健康であって初めて人生の幸福を愉しむことができます。近代物質文明が急速に発達し生活は便利になりましたが、その一方で身体を使う作業範囲が減り不健康になります。(中略)それに(対して)は適度な運動法で健康を維持する努力が必要です』(中村格子の著書から再引用)」

「筋力において劣る者、すなわち『筋力劣者』は、筋権主義の時代において新たに『奴隷』の役割、職務を担うことになる。これは、強権主義と金権主義の時代において不当に『奴隷』とされねばならなかった、あるいは名目はそうでなくとも事実上奴隷として扱われなければならなかった人々に代わって自然的身体的条件によって本来奴隷として、すなわち自分で物事を判断せず他からの命令に忠実に従って働くことでしか確実には成果をあげられない、また結局のところそうしなければ確実に幸福な生活を送ることのできない者たちがその本来の姿に収まるだけのことである」

「筋力において劣る者、すなわち筋力劣者は『創造性』と『芸術』から最も縁遠い人間である奴隷」

「筋力において劣る者、すなわち筋力劣者に最も期待されるのは『所与の数字(数値)の暗記』である。それは価値判断から最も遠く、なおかつ筋力を要しないからである。筋力劣者のうちでこれを苦手とする者はその壁を努力で克服することを社会的に義務づけられる」

「『所与の数字(数値)の暗記』も、そこに『価値判断』が含まれる場合においては筋力劣者には許されないものとなる。

すなわち筋力劣者は『価値判断』をしない範囲で算数、数学を研鑽することを許される。これを苦手とする筋力劣者はその壁を努力で克服することを社会的に義務づけられる。

しかしこれを苦手とする筋力劣者は多い。特に文章題において著しい。なぜなら算数、数学において用いられている日常言語は、筋力劣者の人格的特徴である『わがまま勝手』から最も遠いものであるが故に、筋力劣者にとっては理解困難であり、しかもそれを自覚していないので、しばしば誤読し、しかもそのことに気づかないからである。

これは筋力において劣る者が筋肉感覚において劣り、そのため、共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣るか、甚だしくは欠如していることによる。

それでも筋力劣者はその壁を努力で克服することを社会的に義務づけられる」

「」筋力において『』

それだけでなく筋力劣者にとっては、やむなく『価値判断』を要する文章も、とくにその中で行われている価値判断が真に公平で公正であればあるほど理解困難であり、誤読し、しかもそのことに気づかないからである。

所謂文系においてこの『所与の数字(数値)の暗記』に当たるものがあるとすれば、それは『所与の漢字の暗記』であろう。しかし、これは『所与の数字(数値)の暗記』よりも応用範囲が狭い。それだけでなく、許容範囲がより狭いであろう。なぜならば、その対象の性質から言って『わがまま勝手な価値観の侵入の抑止・排除』がより困難となるからである。というのは数の場合と違って漢字の成り立ち自体に一定の価値観が含まれている場合が少なくないからである。だから筋力劣者は『どの漢字を暗記するか』の選択を自分以外で一定以上の筋力を有する者に委ねなければならないのである。なぜなら、価値判断を許されるための条件はいくつもあるが、その中には『所与の数字(数値)の暗記』が価値判断を含む場合と同様に、一定以上の筋力を有することが含まれるからである。

このように筋力劣者は、その者が筋力劣者であり続ける限り、広義の所謂知的活動としては『所与の情報の暗記』のみを容認され、その有用性を認められる。再三述べてきたように、本来知的活動は全身を働かせて行うものであり、その可能範囲は筋力の程度に比例するから、筋力の低い者に許される(つまり健全に行うことが可能と認められる)範囲が狭小とならざるを得ないのはやむを得ないところである。その中でも価値判断という行為活動は特に筋力によって制御されるところが大きいので、筋力の低い者に許されてはならないのである」

「言うまでもなく人間は『感情の動物』であり、『情報の動物』である。更にそして忘れられがちだが、しかも筋力の低い者、すなわち筋力劣者においては認識すらされないことだが、人間におけるこの感情と情報は主に自律神経を通じて筋肉、筋力と一体なのである。

したがって人間における『感情能力』『情報能力』の程度は筋力に比例する。

したがって人間は『唯脳』ではない。

『唯筋』だ。

そして『人間は全身の筋肉によって思考する。脳だけで思考するのではない』という意味においてのみ、『人間は全身が脳である。通常『脳』と呼ばれている器官部位だけが脳(思考器官)なのではない』という意味においてのみ、更には『骨細胞、脊髄にも感情、情報の作用と流通があり、思考に関与している』という意味においてのみ、つまり『人間は運動する脳である』という意味においてのみ『唯脳』と言い得るのである」

「筋権主義とは一つの『健康主義』である。なぜなら、筋権主義は筋肉こそ生物としての人間の、ヒトの本質と考えるからである」

「世には、脳こそが人間の本質であると考える向きもある。それは見方によっては正しいが、大体は間違った意味において言われている。

『脳こそが人間の本質である』と主張する人々の多くは、頭部にある『所謂「脳」』のみを取り上げ、それのみを『脳』と呼び、人間の唯一の思考器官と考える。しかし筋権主義はそのように考えない。筋権主義は、人間が全身くまなく全ての細胞によって『考えている』と捉える。その中には所謂『運動器官』ももちろん含まれる。その意味では人間の身体全部がまるごと一つの『広義の脳』である。その意味において人間は『脳だけでできた存在』と言い得る。ただしこの脳はもちろん歩き、走り、跳び、つかみ、投げ、その他物理的に可能なあらゆる動作を行う。足や手などその時その時に動いている部位も狭義の脳に動かされている奴隷ではなく、広義の脳の一部であり、実際には自らものを考えてもいるのである。ただもちろん音声や文字で表される言語でその思考を言い表すことがないだけである。代わりにそうした細胞、また細胞群はその思考を『感じたこと』として神経を通じて狭義の脳に伝えているのである。その中でも『筋肉がしている思考』の比重がきわめて大きい。

だからこそ普通考えられている以上に、人間の思考は『血行』すなわち『血の巡り』『血の流れとその循環』によって大きく左右される。それ自体が既に『広義の思考』であると言ってもよい。

そして血管もまた筋肉の一種であり、その個人の筋力によって機能の如何が決定付けられることはよく知られているところである。

そのようにしてなされる人間の思考の賢愚は、つまるところその先見力、予測力によって評価を結論付けられる。認識対象の行く末をどれだけ的確に予見し得たかでその認識の当否が決まる。そして妥当な、つまり可能な限り正確な、実際に起きたことに近い予想をしたうえで、もちろん手をこまねいていてはならない。あらかじめそれに対応する準備をしておくことが求められる。

それでこそ『予想』という行為の過程は完結する。せっかく正しい予想をしても、それきり何もしないのでは宝の持ち腐れというものだ。

そしてこの予測力は超自然的なものである必要はない。言い換えれば、超自然的な能力がなくとも『将来何が起きる確率が高いか』を正確に予想することは可能である。そしてそれは超自然的な能力のない『所謂普通の人間』の努力によって可能となる。

いや、むしろ超自然的な所謂『超能力』による『予知』『予言』よりも、それによらない予想の的中のほうが価値があると言える。それは、そこに至る努力によってその予想をなした当人に達成感の満足をもたらすというだけではない。

特定の『生物学的に厳密には人間ではない』者たちが、その者たちだけが生まれながらに持っている能力で行う予知よりも、そうでない所謂『普通の人間』が刻苦精励の努力によって予知を成し遂げたという事実のほうが、それを知った多くの所謂『普通の人々』の『よし、自分も頑張ってやってやろう』という奮起奮発を促し、結果として多くの人々、ひいては社会全体、国全体、世界人類全体の努力による能力向上の底上げをもたらすのである。超自然的な能力による予知ではこのような波及相乗効果を期待できない。

而して『努力による予知』を可能にするにはいくつかの条件がある。

その一つはビスマルクの言った『愚者は自らの経験に学び、智者は歴史に学ぶ』ということである。それはより多くの情報を持つことで予想の正確さを向上させるということでもあるが、それだけではない。自分よりも優れた成果を上げた過去の賢人の思考を模倣せよということでもあるのである。

それは自ら奢ることなく自分の愚かさを客観的に捉えるという、正確な予想の前提となる作業でもある正しくソクラテスの言う『無知の知』である。

そのうえで、予想される出来事に対して何を目的として何をどのような順番でどのような時間配分で行うかを決めなければならない。ここで算数、数学といった呼び名はどうあれ、『数の計算』にかかわる思考が必要となる。それは『順番と配列』をいかにぴったりと並べて嵌めるかというパズルだからである。

『何からどのように始めてどういう順序で進めていけばいちばん目的にかなった結果を出せるか』を言い当てた者が勝利する。

そして頭部にある『狭義の脳』、その中でも人間の大脳において数の計算と意識的な筋肉運動の中枢は同じく頭頂部にある。これは偶然ではない。人間において筋肉運動と『数の計算』は

深いかかわりがあることを示しているのである。

そしてこうしたことは、筋力の低い者がそうした努力による予想、予測の能力において劣っていること、その理由も示している。何か器質的な障害によって別のメカニズムが働いているという例外でない限り、それは避けることのできない必然なのである」所謂所謂」筋

 

 

 

 

 

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」(佐和山清太郎『筋権党宣言』)