【複製】気まぐれ再掲 佐和山清太郎『増補追加版「筋権党宣言」草稿』抜粋 「財政は | ムカシオナガザルのwesternblack brain stool

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気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

「一匹の怪物が地球をのし歩いている。筋権主義という怪物である。

外国の侵略や内乱に際して自らの腕力でこれを排除するのに貢献する自信のない者たちは、この怪物に震え怯え、息を潜めている。この怪物の通り道を避けて歩き、この怪物を呼び寄せないようにその名を口にすることさえ憚っている。

この者たちは何に怯えているのか。外国の侵略や内乱にではない。革命を恐れているのだ。それは、人間が人間としての本来の姿に立ち戻る革命である。つまり全ての国民が生まれながらに軍人軍属として軍籍を得る国家である。それは国民の、すなわち人間の義務であり、すなわち不可欠の権利である。

人は言う。国家は人類が文明を発達させる過程で付随的に建設したものであると。

否!

国家、就中『国民国家』こそは、その体制の君主制と共和制の別を問わず、万物の霊長としての人間の生物的欲求、本能の環境適応の最も自然な帰結なのである。

何故かの者たちは最近一層怯えているのか。

それは、革命の秋(とき)が近づいているのを、弱い生物の本能で察知したからである。

すなわちかの者どもが怯えかえっていることそれ自体が我ら国民すなわち人間の革命が成就するのが近いことを証明している。かの者どもにとっての凶兆は、我ら国民すなわち人間にとっての福音である。

我々が人間すなわち国民であるとすればかの者どもは何か。かの者どもは何故に国民すなわち人間と呼ばれないのか。そう呼ばれるのに値しないからだ。

かの者どもは、人が須く生まれながらに軍人軍属となるための革命を避けるためには、むしろ内乱や外国の侵略やその他もろもろの災厄を望む。このようなモノを国民と呼べるだろうか。

否!断じて否である。

そして国民の名に値しないモノはまた人間の名にも値しない。

なぜなら先にも述べたように国民国家は人間の生物としての本能の帰結だからである。

そしてこのことは『富』、もっと有り体に言えば金(カネ)にも当てはまる。自国の危急に際してその防衛に資するという社会的、いや人間という生物種の一員としての義務を果たすことのできない者が、他に何をしたからと言って報酬に金銭を受け取ることができるだろうか?

金銭を受け取る者は、その時点でそれに値する身体能力を持っていることを証明してその証明書と引き換えにして初めてその職業的報酬の金銭を受け取ることが許されるのである。これもまた万物の霊長としての生物種の負っている道徳上の義務である。これを果たさない者を人間と呼ぶことはできず、したがって国民と呼ぶこともできない。また繰り返し述べるが、何処の国民でもないモノは人間と呼ぶことはできないのである。

その身体能力の最低限は「健康な生活を送るのに必要な最低限」では到底足りない。それは、『「人間」と呼ばれるには『国民』でなければならない』という基準から言って『国民すなわち人間』の域に達していない『人間の外見だが人間以下である動物』の怠惰な『我儘勝手』に阿るものである。

その基準は軍人が判定して『年齢に相応して国防に貢献できる』と認めるか否かでなければならない。

これに代表されるように人間すなわち国民、国民すなわち人間と認められるには年齢に応じて誰もが絶対に身につけていなければならない『携行技術』がある。それができて初めて『個性』とか『才能』とか言われる突出した能力が社会的に有用であると認められるのである。

そしてその携行技術であるか否かの基準はまず第一に『その年齢に応じて国防に貢献するのに必要か』に置かれなければならない。

統治機構という意味での国家が国民一人ひとりに対して負っている義務で最も重要なのは、その国民一人ひとりをその国にとって忠良な国防国民に教育育成することである。国家の一挙手一投足がそのための広義の育成教育活動でなければならない。

国家すなわち軍学校。

公職者すなわち教師であり軍事教官である。

だからこそ特に政治家や法律家は『先生』と呼ばれるのである。しかしどれほどの者がそのことを認識しているだろうか。況や『国防の教師』であるという点においてをや。

そうでなければ『正しい意味の国家』の名に値しない。

つまり未だに『正しい意味の国家』は実現されたことがない。

しかし人類はそのための発展段階の階段を着実に上ってきたのである。

人類の歴史は『国家という名の学校建設の歴史』に他ならない。

このような誰もが当たり前に承知していなければならないことが忘れられているとは何と嘆かわしいことか。

 

筋権主義とは何か。

それは筋肉を一つのカリスマとして政治的な求心力とする。

それは最も進んだ政治思想であるとともに、最も原初に根ざしており、従って人間の生物としての生理に最も適している。

即ち最も古く、最も新しい政治思想なのである。

 

勘違いしてはならないのは、筋権主義は強権主義や金権主義とは全く異なっているということである。

それどころか、強権主義や金権主義とは全く相反し、それらに最も徹底的に反対する。

というよりも、強権主義や金権主義の長所、有用な部分のみ持ち、短所欠点、無用な部分を排除している。

 

強権主義、金権主義と言うと聞こえは悪いが、これらが歴史に登場したのには一定の理由、すなわち役割があった。

それらが時代遅れになった後に、その長所だけを持ってその役割を引き継ぐ。

それが筋権主義である。

 

すなわち強権主義、金権主義の弁証法的発展の帰結が筋権主義なのである。

 

筋権主義とは何か。

筋権主義とは正義である。正義そのものである。

筋権主義時代の到来は、古代史における英雄時代に比すべき、現代の英雄時代の到来を意味する。

 

人は言う。文明社会の起源は農耕にありと。

否!

それでは農耕以前には文明社会はなかったのか。

否!否!否!

文明社会の起源は狩猟集団である。

そしてこの狩猟集団こそが『人類史上最初の軍』であった。その指導者が後に「神」となったのである。

 

軍とは何か。

軍とは『計画』である。

そしてこの『軍即ち計画』は正しくこの狩猟行動から始まるのである。

人は言う。人間は本来果実や木の実を主食とする温和な生物であり、そこに立ち返るべきだと。

笑止!

 

他の動物を追って襲って殺すことなしに、人類が生き延びることはできなかったし、また現在もできない。それは取って食うためではない。人間を襲って食う肉食獣を返り討ちにする必要に発している。そして一匹殺したら身体の求めるところに従って食わねば損。それこそ『かけがえのない命』を無駄にしないように食う。食われないよう身を守るために殺したら、唯一の罪滅ぼしは食って自分の体の一部として生き返らせ生きながらえさせることだ。

 

そうして一匹殺したら2匹殺すも3匹殺すも同じこと。

人を襲わぬものを殺すのも同じことだ。そうして力を増した体でまた身を守るために殺して食う。

殺生が人の原罪であるならば、それは正しくこの『人を襲って食う肉食獣を返り討ちにする必要』から始まったのである。そしてそのために結成された狩猟集団こそが人類最初の『軍』であった。

『軍』は元々『人以外のものと戦うものども』であった。

 

さてその原初の『軍』に女はいたであろうか。

原初の軍における女は『参謀』であり『司令官』であったが、後の世ではその技術を『占い』と呼んだ。

この役割を女が担うことが多かった理由は定かではないが、女が子供を身籠ることができるということと大きく関わっていたであろう。

 

それには積極的、消極的の両面があったに違いない。

積極的には身籠った子供を守るため、危険を察知したり危機を乗り切る知恵を捻り出すことに長けていた。

消極的には子供を身籠るために筋肉を取られるので、殺すための筋肉は男よりも少ないことが多かった。

 

しかし例外もいた。即ち女のように危険を察知して危機を乗り切る知恵を捻り出す男もいた。これは男巫(おとこみこ)と呼ばれた。これが殺すための筋肉を十分に兼ね備えている時に『神』として崇め奉られることがあった。

これが人格神の始まりなのである。

 

他方、女巫(おんなみこ)が狩猟の司令官となると女神すなわち当時の女王となったが、殺すための筋肉が十分でない時に人々は筋肉ある男か知恵ある占いのできる女か、いずれを神すなわち当時の王とするかを選ばなければならなくなった。

 

そこで当時の人々は、まだ自分の生物的本能を直感してそれに忠実に従っていたので、l多くの場合、女神すなわち当時の女王を殺し、より筋肉ある男巫や、あるいは単に狩猟に優れた筋骨隆々たる男を新たに神すなわち当時の王としたのである。

 

なぜこうなるのか。

 

人間、特に男は「頭でっかちで口先ばかりの者」に嫌悪感を抱くものだということを我々は経験によって知っている。

天智天皇を振り返ってみるがいい。天智帝は、皇子当時、蘇我一族古代の対外的な改革開放における則を越えて単なる売国奴に成り下がり、政権を私していたのを赦さず、これに救国の鉄鎚を下して自ら玉座に就き、更に進んで改革の責を果たされたのである。

考えてみよ。

皇子は自らの手で蘇我入鹿を誅戮した。皇子が虚弱の低筋力であったなら、どうであったか。それは可能であったか。

 

事後の改革は、皇子がその手を敢えて血で汚した勇断によるところが大であったことは疑う余地がない。

 

皇子にして虚弱で能く自らこれを成し得なかったならば、その後の天智天皇による国家体制刷新、大陸に遅れをとることない先進律令国家建設は、下の協力を得られないまま、失敗していたであろう。

皇子は狩猟を嗜む偉丈夫であった。それでこそ事は成ったのである。

もしもこれが成らなかったならば、日本は半島、大陸の外来勢力によって好き放題に蝕まれていたのである。正しく上に立つ愛国の指導者の筋肉が十分であったればこそ、古来日本は日出処として海上に屹立することが出来てきたのである。

この一事を取ってみても一国の指導者の筋力がその信を得ることに如何に重要な意味を持っているかがわかる。

これらは『観察と実験』に基づく『信念の体系』によるものである。

古代・中世の「伝承の時代」から近代・現代の「観察と実験の時代」を経て世界の文明は「人智予測万能の時代」という黄金期へと進むであろう。そこでこそ「筋肉」が大脳前頭前野と手を携えて人類進化における本来の役割を果たすことになるのである。

 

そして日本の『武士道』の淵源もまたこの旧石器時代における狩猟集団にまで遡らねばならない。

 

そもそも『武士道』とは何か。どのようなものであるのか。

新渡戸稲造の『武士道』によれば

 

筋肉の性差と個人差

 

筋肉と自尊心

 

筋権主義と男根主義

「そもそも生物進化、就中、動物のそれ自体が筋力増強、そしてその可動範囲の応用の拡大のための骨格構造の発達進化の歴史である。そしてそれは生物の社会的行動の発達と密接に結びついていたのである。

それは人類集団の狩猟採集を中心とした移動生活から農耕に代表される定住生活への移行に帰結した。

而してその移行の過程にはしばしば漁労が介在していた。漁労とは水界における『狩猟』である。この漁労が定住生活への移行を促す場合があったのである。すなわちここでも人類の前進を促したのは『筋力でもって他の動物を殺す』ことであった」

「そもそも我々の身体は筋力を用いて敵を殺さなければ生きていけないようにできているのだ」

「太古からの生命進化の歴史とは、原初には小さく弱々しい生き物に過ぎなかった『動物』類が、万物の霊長たる我々ヒトを頂点に地球の支配者として君臨するに至った過程である。常にその鍵を握ってきたのは筋力強化、およびその機能の拡張であった」

「かつて我々の祖先は、敵を殺すことに長けた者を、まさにそのために尊び敬い、崇めてきた。その心を人間はいつの間にか忘れてしまった」

「怒ることは『権利』である。しかしその『権利』は万人に等しく与えられるものではない。

それではその資格要件は何か。

その怒りを抱くに至った理由の正当性か?

否!

それ以前に周囲が、その人物が『怒り』という感情を抱くのを許されるにふさわしい、抱いてよいと認めるに足る筋力を有していなければならない。その個人が怒ってよいかどうかは、その人格によって判断されるのである。人が他者の人格を判断する理由はもちろん一つではない。しかし、理想はどうあれ、現実には大多数の人々は個人の人格を必ずその筋力についての第一印象からも判断する。必ずだ。つまり圧倒的多数派によって筋力の第一印象は、人格判断の絶対的必要条件とされるのである。

したがってその資格要件の一つは一定以上の筋力なのである。いかに正当な理由があったとしてもその条件を満たさない者が怒ることを多数者が認めることは絶対にない。せいぜいその怒りに同調する別の者がそれに見合った筋力を持っていれば、その者にその怒りの行使をゆだねる場合がある程度である。

なぜこのようにならざるを得ないのか。それは、怒る者がその怒りの正当性の当否を自分で判断することは至難だからである。そしてその認識のために最も必要とされるものこそ『一定水準以上の筋力』に他ならない。だからそれを持たない者は自分自身についての判断を信頼されない。

『自分で自分を判断する』

そのために本来要求される水準は『超人』と言っても過言ではない。そのことはドイツのニーチェも述べているところのものである。

その筋力は一つには、判断する過程で材料として必要な知識を経験によって得るのに必要となる。しかし、それだけではない。

多くの場合意識されないが、正に判断という行為は筋力によって支えられているのである。その瞬間には、それをやり遂げるのに全身の莫大な筋力が消費される。そして高い水準の判断にはそれに見合った『超人的な筋力』が求められるのである。これは『正当に怒る』のに見合った超人的な筋力を持った人間でなければわからない。

イエス、釈迦、孔子といった『怒れる聖人』がそれである。

ある者は『他者の痛みを知るために必要であったからだ』と言う。

笑止!

何と迂遠な解釈であることか。こうした論者は現実に起こった出来事を、弱い自分を正当化したうえで合理的に説明するために、このような説明をせざるを得ないのである。急峻な坂を上り乗り越えた先人の足跡を辿るのに臆し、安楽な回り道をしているようなものだ。それでいて聖人に列する賢者としての称賛だけは受けたいのである。正に独善のための曲学の筆法である。

真実は、他者を統治するのに筋力による強制を直接用いず、形としては言葉によって心服せしめるには、まず自らを完璧に律しなければならず、そのためには心身両面を陶冶しなければならなかったのであり、まず身体の鍛錬によってのみ可能なのである。そうして身体能力に余裕が生まれることから、精神にも余裕ができ、それを前提として真意は自陣の絶対優位を意味する『敵に寛容であれ』という魅惑的なイデオロギー、つまり虚偽の空理空論に説得力を持たせることができた。そしてこれにより、聞く者の心を意のままに動かし、自由意思を失わしめて従属せしめることができたのである。『敵に寛容であれ』という言葉から賢者が学ぶべきものは、こうしたマキャベリズムの知恵なのである。

『敵に寛容であれ』という言葉は、その敵を独力で素手で殺せるほどの筋力を持つと信じられる者の口から発せられて初めて『真実である』と信じせしめるほどの説得力を持つ。だから所謂『広義のアンガーマネジメント』即ち『否定的な感情の自己管理』を他者に行わせる者は須く『自分一人で素手で敵を殺せる』ほどの筋力を持つと暗黙に信じられている。そのように信じせしめるため、すなわち『敵に寛容であれ』と口にする資格を得るためにイエスや釈迦は苦行を積んだのである。正に人心収攬によって己が理想とする秩序を実現するための第一歩であった。だからこそそれを成し遂げた後にイエスは『神の国は近づいた』と言い、釈迦は『仏法を悟った』という確信を得た。『神の国』といい、『仏法』といい、これらはいずれも『苦行の無意味を悟った』と言うかのような外見とは裏腹に、指導者が身体を極限まで鍛錬することによってのみ到達しうる理想の秩序の謂いなのである。

これは、過程は違えど孔子も同じである。

孔子は戦いに道あるべしと説いたが、自身はその生身の剛腕で敵の首をひねり潰すと信じるに足る偉丈夫であった。

同じことは所謂『文民政治家』のうち、高邁な『人道』と称する道徳的理想を語った者のなかでも、単に舌先三寸の詐欺師でなく統治と外交の実を上げた史上名高い者たちにも言えるのである。

生物としてのヒトの群れは本来その筋力、及びそれに基づく威嚇を隠さない『武人』にのみ追随する。そうでない場合は、『文人』『文民』であっても『武人』と同等の身体、したがって『精神』の能力を有しているか、邪な詐欺師に騙されているかのいずれかしかないのである」

筋力の劣る者に『自分の意見を持つ』資格などない。

それは、幕末明治の聖賢福澤諭吉先生が述べられたように、『自由』と『わがまま勝手』をはき違えてはならないからである。

筋力において劣る者は他者との『共感性』即ち『同調性』において劣ることが生物学的に自明である。なぜなら筋力において劣る者は当然『筋肉感覚』において劣っているからである。これは、外界に対する感覚が鈍いということを物語っている。即ち筋力において劣る者は本人の好むと好まざるとにかかわらず須く『内にこもる』。有り体に言えば『自分のことしか考えない、わがまま勝手な傾向』の性格とならざるを得ないのである。これはその筋力によってのみ判断される。当人がいくらその精神面の欠陥を隠し立てしようとしても、『筋力が劣る』という事実がそれを暴露してしまうのである。

福澤翁は『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』と言い、人の上下はただ学問をしているかどうかによってのみによると述べた。しかし、ここで誤解してはならないのはその『学問』の内容である。福澤翁は、それは西洋の学問のことであると言っているが、それは筋力がすでに十分な者にのみ当てはまるのである。それによって十分な筋肉感覚をもって一身独立、一国独立のために西洋文明を学ぶのは有益である。

だが、そうでない場合、即ちいまだ筋力の劣っている者は、『筋力増強』がまず最初に着手しなければならない『学問』となる。

そうして筋力がせめて人並みになってこそ『筋肉感覚』がようやく人並みとなり、『わがまま勝手』でなく『人を害せざる』自由を行使するための知識を得ることができるようになる、その前提となる身体条件が満たされるのである。

察するに、福澤翁は医学者でもあったのだから、この理がお分かりでなかったはずはない。おそらく、あまりにも当然自明のことであったが故に、あえて述べずに省略して煩瑣を避けられたのであろう。

しかし今や世は頽廃した末世となり果てた。

言わずもがなの常識は廃れて忘れ去られ、もはや『常識』ではなくなった。だからここにあえてこと改めてこのように述べなければならないのである。

『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、ただ人に上下あるは、己の筋力を強めんと努めざるか否かによる』と

福澤翁は、議論する前にはまずその議論の『標準』を定めなければならないと言い、その『標準』は西洋近代文明に置かれなければならないと述べたが。これもまたその自明の前提として『すべての個々人は議論に参加する資格要件として一定以上の筋力を有していなければならぬ』ということが省略されているのである。

なぜ議論の参加資格として一定以上の筋力が求められるのかと言えば、それはすでに述べたとおりである。即ち一定以上の筋力に裏づけられた筋肉感覚を持たない者は他者と論を交わすに足るに必要な『共感性』即ち『同調性』を持たないからである。それなのに、資格ある者同士の議論に口をさしはさむ、いや『割り込む』ならば、それは議論の『妨害』に他ならない。誰がそんなことを許すべきだと考えるだろうか?

それは時間の浪費であり、ベンジャミン・フランクリンの『時は金なり』という箴言に沿えば『財産の損壊』であり、また人間が限られた寿命を過ぎて戻らぬ時の流れの中で生きねばならないことを考えれば、そのようにして他者の時間を無為に削り、その人生の幾分かを空費せしめることは『緩慢な殺人』と言っても過言ではない、法律に反しなくても道義的犯罪、人道に対する罪なのである。

このように、筋力の劣る者がそうでない者に関与することは、無益を通り越して有害となり、これこそ『健全な精神は健全な肉体に宿る』という格言の具体的例証なのである。

文民筋力

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文民筋力文民筋力

文民筋力

文民筋力文民筋力

 

 

文民筋力

 

文民筋力文民筋力文民筋力文民

文民文民文民

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「そもそも生物進化、就中、動物のそれ自体が筋力増強、そしてその可動範囲の応用の拡大のための骨格構造の発達進化の歴史である。そしてそれは生物の社会的行動の発達と密接に結びついていたのである。

それは人類集団の狩猟採集を中心とした移動生活から農耕に代表される定住生活への移行に帰結した。

而してその移行の過程にはしばしば漁労が介在していた。漁労とは水界における『狩猟』である。この漁労が定住生活への移行を促す場合があったのである。すなわちここでも人類の前進を促したのは『筋力でもって他の動物を殺す』ことであった」

「そもそも我々の身体は筋力を用いて敵を殺さなければ生きていけないようにできているのだ」

「太古からの生命進化の歴史とは、原初には小さく弱々しい生き物に過ぎなかった『動物』類が、万物の霊長たる我々ヒトを頂点に地球の支配者として君臨するに至った過程である。常にその鍵を握ってきたのは筋力強化、およびその機能の拡張であった」

「かつて我々の祖先は、敵を殺すことに長けた者を、まさにそのために尊び敬い、崇めてきた。その心を人間はいつの間にか忘れてしまった」

「怒ることは『権利』である。しかしその『権利』は万人に等しく与えられるものではない。

それではその資格要件は何か。

その怒りを抱くに至った理由の正当性か?

否!

それ以前に周囲が、その人物が『怒り』という感情を抱くのを許されるにふさわしい、抱いてよいと認めるに足る筋力を有していなければならない。その個人が怒ってよいかどうかは、その人格によって判断されるのである。人が他者の人格を判断する理由はもちろん一つではない。しかし、理想はどうあれ、現実には大多数の人々は個人の人格を必ずその筋力についての第一印象からも判断する。必ずだ。つまり圧倒的多数派によって筋力の第一印象は、人格判断の絶対的必要条件とされるのである。

したがってその資格要件の一つは一定以上の筋力なのである。いかに正当な理由があったとしてもその条件を満たさない者が怒ることを多数者が認めることは絶対にない。せいぜいその怒りに同調する別の者がそれに見合った筋力を持っていれば、その者にその怒りの行使をゆだねる場合がある程度である。

なぜこのようにならざるを得ないのか。それは、怒る者がその怒りの正当性の当否を自分で判断することは至難だからである。そしてその認識のために最も必要とされるものこそ『一定水準以上の筋力』に他ならない。だからそれを持たない者は自分自身についての判断を信頼されない。

『自分で自分を判断する』

そのために本来要求される水準は『超人』と言っても過言ではない。そのことはドイツのニーチェも述べているところのものである。

その筋力は一つには、判断する過程で材料として必要な知識を経験によって得るのに必要となる。しかし、それだけではない。

多くの場合意識されないが、正に判断という行為は筋力によって支えられているのである。その瞬間には、それをやり遂げるのに全身の莫大な筋力が消費される。そして高い水準の判断にはそれに見合った『超人的な筋力』が求められるのである。これは『正当に怒る』のに見合った超人的な筋力を持った人間でなければわからない。

イエス、釈迦、孔子といった『怒れる聖人』がそれである。

イエスや釈迦はなぜ身体的苦行を自らに課さねばならなかったのか。

ある者は『他者の痛みを知るために必要であったからだ』と言う。

笑止!

何と迂遠な解釈であることか。こうした論者は現実に起こった出来事を、弱い自分を正当化したうえで合理的に説明するために、このような説明をせざるを得ないのである。急峻な坂を上り乗り越えた先人の足跡を辿るのに臆し、安楽な回り道をしているようなものだ。それでいて聖人に列する賢者としての称賛だけは受けたいのである。正に独善のための曲学の筆法である。

真実は、他者を統治するのに筋力による強制を直接用いず、形としては言葉によって心服せしめるには、まず自らを完璧に律しなければならず、そのためには心身両面を陶冶しなければならなかったのであり、まず身体の鍛錬によってのみ可能なのである。そうして身体能力に余裕が生まれることから、精神にも余裕ができ、それを前提として真意は自陣の絶対優位を意味する『敵に寛容であれ』という魅惑的なイデオロギー、つまり虚偽の空理空論に説得力を持たせることができた。そしてこれにより、聞く者の心を意のままに動かし、自由意思を失わしめて従属せしめることができたのである。『敵に寛容であれ』という言葉から賢者が学ぶべきものは、こうしたマキャベリズムの知恵なのである。

『敵に寛容であれ』という言葉は、その敵を独力で素手で殺せるほどの筋力を持つと信じられる者の口から発せられて初めて『真実である』と信じせしめるほどの説得力を持つ。だから所謂『広義のアンガーマネジメント』即ち『否定的な感情の自己管理』を他者に行わせる者は須く『自分一人で素手で敵を殺せる』ほどの筋力を持つと暗黙に信じられている。そのように信じせしめるため、すなわち『敵に寛容であれ』と口にする資格を得るためにイエスや釈迦は苦行を積んだのである。正に人心収攬によって己が理想とする秩序を実現するための第一歩であった。だからこそそれを成し遂げた後にイエスは『神の国は近づいた』と言い、釈迦は『仏法を悟った』という確信を得た。『神の国』といい、『仏法』といい、これらはいずれも『苦行の無意味を悟った』と言うかのような外見とは裏腹に、指導者が身体を極限まで鍛錬することによってのみ到達しうる理想の秩序の謂いなのである。

これは、過程は違えど孔子も同じである。

孔子は戦いに道あるべしと説いたが、自身はその生身の剛腕で敵の首をひねり潰すと信じるに足る偉丈夫であった。

同じことは所謂『文民政治家』のうち、高邁な『人道』と称する道徳的理想を語った者のなかでも、単に舌先三寸の詐欺師でなく統治と外交の実を上げた史上名高い者たちにも言えるのである。

生物としてのヒトの群れは本来その筋力、及びそれに基づく威嚇を隠さない『武人』にのみ追随する。そうでない場合は、『文人』『文民』であっても『武人』と同等の身体、したがって『精神』の能力を有しているか、邪な詐欺師に騙されているかのいずれかしかないのである」

「動物のオスの筋肉は何のためにあるか。それはメスに奉仕するためで、その他にはない。それはヒトも例外ではない。メスのマンモスの歯を口の中で掃除する虫ケラのように奉仕しなければならない。そのための筋肉だ」

「私も若い頃、とある貴婦人に恋をしていたことがある。当時、私は既に華族の一族に列する者だったが、その方は宮様と肩を並べる方だと私は思い定めていたので、とてもかなわぬことだとあきらめていた。しかし私よりも目下の者が助言してくれたので、それに従って彼女に、いやそのお方にふさわしい者になろうと、改めて体を鍛え始めた。

改めてそのお方を見ると、いや拝見すると、豪奢ないでたちに包まれて涼やかなまなざしをされていた」

「男が女よりも高い社会的地位にあるように見えるのは、そのほうが女に奉仕するために都合がよいからである。すべての生物は、その置かれた条件によってオスがメスに奉仕するのに最も都合のよい行動様式を取れるように適応進化しており、もちろんヒトも例外ではない」

「繫殖の優先順位」

「そのお方の両襟に挟まれて首元に見えるのは、おお、それは我が母から寝物語に聞かされた『生きた「世界」の卵』ではないか!私は思った。あのお方とその『世界の卵』をともに我が手に入れなければならぬと」

「こう考えたらどうだろう。

例えばもしもこの宇宙がひとつの『細胞』だとしたら、それと似たような宇宙が三十八兆、いや人知では数え切れぬほどあり、それらは無秩序に散在しているのではなく、あたかも人体のように全体で一つの多細胞生物の一個体を構成しているのかもしれないと。

れをこそ『あの世』『この世』という時の『この世』という意味で『世界』と呼ぶべきなのではないか。即ちそれこそが、そういう意味における『世界』の真の姿だと捉えるべきなのではないか。

宇宙は、我々宇宙と呼んでいるのはそのほんの微細な一構成部分、部品のようなものにすぎない。

そしてそういう『世界』が八十億も百億も、いやこれまた人知では計り知れないくらいある、いや『いるのかもしれない』と考えたらどうだろう。

そして我々から見た既知の生物がそうであるように、それら『「世界」と呼ぶべき種類の生物』の心身の有様や能力の程度もそれぞれに千差万別だろう。

そして既知の生物の個体がそうであるように、一見似通って区別のつかない『世界』でも全く同じものは二つとないに違いない。そしてその中に既知の生態系で『ヒト』に当たる『世界』があったなら、もちろん異論もあるだろうが私はそれを『神』と呼ばねばならないと考える。しかし我々の間にさえ異論としてその『神』を『悪魔』と呼ぶ者もいるだろう」

「無数の『宇宙』を細胞とする人体のようなこの『世界』の中で自律的に行動する我々はその微小さから言ってウイルスに当たるだろう。もちろんウイルスだからと言って宿主にとって有害とは限らない。だとすれば我々は今宿主たる『世界』にとって有益なのか?有害なのか?有益であるためにはいかに振る舞えばよいのか?

ここでもまず問題になるのは筋肉と筋力の如何だ。そして最終的には、我々の筋肉をもって『世界』即ち『この世』というもの自体の言わば脳神経組織とすることができればいちばんよい。そのためにはどうすればよいのか。そのためにまず問題になるのがまた筋肉と筋力の如何なのだ。

私は変えない。『この世という意味での「世界」』における『ゴミの出し方』がいくら変わろうとも、私はそのやり方を変えることはない。

私は変えない。『この世という意味での「世界」』における『掃除の仕方』がいくら変わろうとも、私はそのやり方を変えることはない。

我々の現在のやり方が何者かによって『過去の遺物』とされ、そのやり方によって築き上げた建築物が『前時代の遺跡』と呼ばれることになっても、私はその偉大さ、価値の不変を忘れることは決してない」

「『暴力』も『怒り』と同様である。

『暴力』も場合によっては一つの権利であるが、しかしその場合でもそれを行使することが許されるのは一定以上の筋力を持つ者のみである。その場合、その理由は『怒り』の場合と同じである。許される暴力とは多くの場合『怒り』の感情の身体的表現であり、またそもそも怒りという感情そのものが広義の暴力であるからだ。なぜならば」

「許される暴力の一つは『愛する者を奪われた者』がその原因となった者に向ける暴力である。しかしその場合でもその暴力を行使する者は一定以上の筋力を持っていなければならない。これは国家に対して刑罰という名の暴力の行使を請求する者にも当てはまる」

「そして最も本質的な論点としてすべての『権力』もまた『筋力』にその源泉がなければならない」

「筋権主義の哲学によって人力と手仕事の日々を送る人々とその上に立って金権主義によって全力で贅を凝らした祭りの日々を送る人々という『社会の二重構造』が歴史の中で繰り返されてきた。これはなぜか。

「ノストラダムスの予言した『恐怖の大王』とはインターネットのことである。

恐怖の大王が『空から来る』とは通信衛星やGPSなど、インターネットの運営に用いられる人工衛星システムを指している。

しかしインターネットが悪なのではない。『恐怖』でもなく『大王』ですらない。とりわけそれを実現した人々の『手仕事』は言葉そのままの意味において『偉大』と言うしかない。

『悪』であり『恐怖の大王』なのはそれに便乗してそれをただ一方的に消費し、労せずして我欲のみを満たそうとする者どもの『心』だ。この点においてノストラダムスは間違えた。少なくとも誤解を招いた。『恐怖の大王』は空から来るのではなく人の心から来るのだ。

それが何によって害をもたらすのかと言えば、核兵器でも自然破壊でもなく『インターネットによる我欲の充足の欲求』がその者自身の心を縛る『内なる独裁者』として恐怖をもたらすことが問題なのである。それが人を操り突き動かすことが幾百千万数多の実害を世に放つことになったのである。

而して『マルスがほどよく統治する』とは、『軍』のみがその暴走を止め、正しい生存の道へ導くことができるという意味なのである。この点についてはノストラダムスは全く正しかった」

「女こそ将来の筋権主義体制の主要な担い手となるべき社会集団である。それは、女の歴史は手仕事と人力による労働の時代が男よりもはるかに長く続いたからである。それにより女は『筋権主義革命』の担い手として男よりはるかに成熟しており、大きな革命的力量を有しているのである。

しかし女は長く抑圧されてそれを自覚する機会を狭められてきた。したがって大多数の女は、実際に『革命』の担い手となるためには、先覚者の領導に従うことによって覚醒しなければならない。この先覚者に男が多いのは、現在の歪んだ旧制度の制約のせいで避けることができない。

しかし女たちの筋権主義への覚醒の連鎖反応は、いったん始まればたちまち全世界を覆いつくすであろう。そして覚醒した女たちがいまだ目覚めぬ蒙昧な男どもを鞭打って否応なく目覚めさせることになるだろう」

「したがってそこに至る筋権主義の発展過程の観点から見た人類の歴史は、一つには『女の歴史』として記述されなければならないのである」

「筋権主義の観点からは女にこそ『士道』『武道』『武士道』教育の徹底が必要だったのであり、仏教は釈迦による開教当時からそのように機能する可能性を内包していたのである。釈迦ら初期の仏教指導者が長らくそれに気づかず、僧職から女を排除していたのはかえすがえすも残念なことである。この失敗がなければ人類は筋権主義的に実際の歴史よりもはるかに速く発展していたであろう」

「人間を万物の霊長たらしめる科学技術の発展が、将来『男も出産する』ことを可能ならしめ、同時にまた筋力の成長発展が導く理性が筋権主義体制を確立せしめる。この二つが相伴って両輪となった社会では男女にかかわらず『社会の必要に応じて産み、能力ある者が育てる』ことが可能になるのである。

更にこの正しい方向に沿って発展が進めばその時こそ『個人の欲求に応じて産み育てる』ことが全面的に許される。なぜならその時には筋権主義によって十分に成熟した社会となっており、そこではすべての個人が老若男女問わず儒教的に見た老成、晩成、すなわち『思いのままに振る舞って則を越えない』ようになっているからである」

「こうした女と同様に筋権主義革命の担い手の地位を占めるのは『奴隷』である。ないしは名目は違っても事実上『奴隷』として取り扱われている人々である。その理由は女の場合とある程度重なっている。もっとも女はしばしば女という理由で、時には名実ともに、時には名目は違っても事実上は奴隷として取り扱われてきたのだが」

「筋権主義とは、『力』についての観察と実験、そしてその論者の個人的経験に基づく哲学、すなわち現実認識の方法論に他ならない。従ってこれを、『力』についての科学哲学、及びそれに基づく歴史哲学と言ってもよい。ただしそれは一定の具体的歴史像を伴っている」

「筋権主義の観点から見るまでもなく、財政は軍事に次ぐ『第二の国防』である。而して十分な国防費を確保するための要諦は、社会保障費の削減である。そのためには国民をして『医療に拠らざる健康増進』に取り組ましめることが不可欠であり急務である。それこそ祖国防衛のために国民一人残らず課される義務である。このために最も有用なのが筋権主義なのである。

これが理解されるなら、そのために国民一人一人が自ら進んでまず第一に己の筋力の鍛錬増強に勤しまなければならないのは自明である」筋権

 

 

 

 

 

 

 

」(佐和山清太郎『筋権党宣言』)