「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

 

 

 

中略

「そもそも生物進化、就中、動物のそれ自体が筋力増強、そしてその可動範囲の応用の拡大のための骨格構造の発達進化の歴史である。そしてそれは生物の社会的行動の発達と密接に結びついていたのである。

それは人類集団の狩猟採集を中心とした移動生活から農耕に代表される定住生活への移行に帰結した。

而してその移行の過程にはしばしば漁労が介在していた。漁労とは水界における『狩猟』である。この漁労が定住生活への移行を促す場合があったのである。すなわちここでも人類の前進を促したのは『筋力でもって他の動物を殺す』ことであった」

「そもそも我々の身体は筋力を用いて敵を殺さなければ生きていけないようにできているのだ」

「太古からの生命進化の歴史とは、原初には小さく弱々しい生き物に過ぎなかった『動物』類が、万物の霊長たる我々ヒトを頂点に地球の支配者として君臨するに至った過程である。常にその鍵を握ってきたのは筋力強化、およびその機能の拡張であった」

「かつて我々の祖先は、敵を殺すことに長けた者を、まさにそのために尊び敬い、崇めてきた。その心を人間はいつの間にか忘れてしまった」

「怒ることは『権利』である。しかしその『権利』は万人に等しく与えられるものではない。

それではその資格要件は何か。

その怒りを抱くに至った理由の正当性か?

否!

それ以前に周囲が、その人物が『怒り』という感情を抱くのを許されるにふさわしい、抱いてよいと認めるに足る筋力を有していなければならない。その個人が怒ってよいかどうかは、その人格によって判断されるのである。人が他者の人格を判断する理由はもちろん一つではない。しかし、理想はどうあれ、現実には大多数の人々は個人の人格を必ずその筋力についての第一印象からも判断する。必ずだ。つまり圧倒的多数派によって筋力の第一印象は、人格判断の絶対的必要条件とされるのである。

したがってその資格要件の一つは一定以上の筋力なのである。いかに正当な理由があったとしてもその条件を満たさない者が怒ることを多数者が認めることは絶対にない。せいぜいその怒りに同調する別の者がそれに見合った筋力を持っていれば、その者にその怒りの行使をゆだねる場合がある程度である。

なぜこのようにならざるを得ないのか。それは、怒る者がその怒りの正当性の当否を自分で判断することは至難だからである。そしてその認識のために最も必要とされるものこそ『一定水準以上の筋力』に他ならない。だからそれを持たない者は自分自身についての判断を信頼されない。

『自分で自分を判断する』

そのために本来要求される水準は『超人』と言っても過言ではない。そのことはドイツのニーチェも述べているところのものである。

その筋力は一つには、判断する過程で材料として必要な知識を経験によって得るのに必要となる。しかし、それだけではない。

多くの場合意識されないが、正に判断という行為は筋力によって支えられているのである。その瞬間には、それをやり遂げるのに全身の莫大な筋力が消費される。そして高い水準の判断にはそれに見合った『超人的な筋力』が求められるのである。これは『正当に怒る』のに見合った超人的な筋力を持った人間でなければわからない。

イエス、釈迦、孔子といった『怒れる聖人』がそれである。

イエスや釈迦はなぜ身体的苦行を自らに課さねばならなかったのか。

ある者は『他者の痛みを知るために必要であったからだ』と言う。

笑止!

何と迂遠な解釈であることか。こうした論者は現実に起こった出来事を、弱い自分を正当化したうえで合理的に説明するために、このような説明をせざるを得ないのである。急峻な坂を上り乗り越えた先人の足跡を辿るのに臆し、安楽な回り道をしているようなものだ。それでいて聖人に列する賢者としての称賛だけは受けたいのである。正に独善のための曲学の筆法である。

真実は、他者を統治するのに筋力による強制を直接用いず、形としては言葉によって心服せしめるには、まず自らを完璧に律しなければならず、そのためには心身両面を陶冶しなければならなかったのであり、まず身体の鍛錬によってのみ可能なのである。そうして身体能力に余裕が生まれることから、精神にも余裕ができ、それを前提として真意は自陣の絶対優位を意味する『敵に寛容であれ』という魅惑的なイデオロギー、つまり虚偽の空理空論に説得力を持たせることができた。そしてこれにより、聞く者の心を意のままに動かし、自由意思を失わしめて従属せしめることができたのである。『敵に寛容であれ』という言葉から賢者が学ぶべきものは、こうしたマキャベリズムの知恵なのである。

『敵に寛容であれ』という言葉は、その敵を独力で素手で殺せるほどの筋力を持つと信じられる者の口から発せられて初めて『真実である』と信じせしめるほどの説得力を持つ。だから所謂『広義のアンガーマネジメント』即ち『否定的な感情の自己管理』を他者に行わせる者は須く『自分一人で素手で敵を殺せる』ほどの筋力を持つと暗黙に信じられている。そのように信じせしめるため、すなわち『敵に寛容であれ』と口にする資格を得るためにイエスや釈迦は苦行を積んだのである。正に人心収攬によって己が理想とする秩序を実現するための第一歩であった。だからこそそれを成し遂げた後にイエスは『神の国は近づいた』と言い、釈迦は『仏法を悟った』という確信を得た。『神の国』といい、『仏法』といい、これらはいずれも『苦行の無意味を悟った』と言うかのような外見とは裏腹に、指導者が身体を極限まで鍛錬することによってのみ到達しうる理想の秩序の謂いなのである。

これは、過程は違えど孔子も同じである。

孔子は戦いに道あるべしと説いたが、自身はその生身の剛腕で敵の首をひねり潰すと信じるに足る偉丈夫であった。

同じことは所謂『文民政治家』のうち、高邁な『人道』と称する道徳的理想を語った者のなかでも、単に舌先三寸の詐欺師でなく統治と外交の実を上げた史上名高い者たちにも言えるのである。

生物としてのヒトの群れは本来その筋力、及びそれに基づく威嚇を隠さない『武人』にのみ追随する。そうでない場合は、『文人』『文民』であっても『武人』と同等の身体、したがって『精神』の能力を有しているか、邪な詐欺師に騙されているかのいずれかしかないのである」

「動物のオスの筋肉は何のためにあるか。それはメスに奉仕するためで、その他にはない。それはヒトも例外ではない。メスのマンモスの歯を口の中で掃除する虫ケラのように奉仕しなければならない。そのための筋肉だ」

「私も若い頃、とある貴婦人に恋をしていたことがある。当時、私は既に華族の一族に列する者だったが、その方は宮様と肩を並べる方だと私は思い定めていたので、とてもかなわぬことだとあきらめていた。しかし私よりも目下の者が助言してくれたので、それに従って彼女に、いやそのお方にふさわしい者になろうと、改めて体を鍛え始めた。

改めてそのお方を見ると、いや拝見すると、豪奢ないでたちに包まれて涼やかなまなざしをされていた」

「男が女よりも高い社会的地位にあるように見えるのは、そのほうが女に奉仕するために都合がよいからである。すべての生物は、その置かれた条件によってオスがメスに奉仕するのに最も都合のよい行動様式を取れるように適応進化しており、もちろんヒトも例外ではない」

「繫殖の優先順位」

「そのお方の両襟に挟まれて首元に見えるのは、おお、それは我が母から寝物語に聞かされた『生きた「世界」の卵』ではないか!私は思った。あのお方とその『世界の卵』をともに我が手に入れなければならぬと」

「こう考えたらどうだろう。

例えばもしもこの宇宙がひとつの『細胞』だとしたら、それと似たような宇宙が三十八兆、いや人知では数え切れぬほどあり、それらは無秩序に散在しているのではなく、あたかも人体のように全体で一つの多細胞生物の一個体を構成しているのかもしれないと。

れをこそ『あの世』『この世』という時の『この世』という意味で『世界』と呼ぶべきなのではないか。即ちそれこそが、そういう意味における『世界』の真の姿だと捉えるべきなのではないか。

宇宙は、我々宇宙と呼んでいるのはそのほんの微細な一構成部分、部品のようなものにすぎない。

そしてそういう『世界』が八十億も百億も、いやこれまた人知では計り知れないくらいある、いや『いるのかもしれない』と考えたらどうだろう。

そして我々から見た既知の生物がそうであるように、それら『「世界」と呼ぶべき種類の生物』の心身の有様や能力の程度もそれぞれに千差万別だろう。

そして既知の生物の個体がそうであるように、一見似通って区別のつかない『世界』でも全く同じものは二つとないに違いない。そしてその中に既知の生態系で『ヒト』に当たる『世界』があったなら、もちろん異論もあるだろうが私はそれを『神』と呼ばねばならないと考える。しかし我々の間にさえ異論としてその『神』を『悪魔』と呼ぶ者もいるだろう」

「無数の『宇宙』を細胞とする人体のようなこの『世界』の中で自律的に行動する我々はその微小さから言ってウイルスに当たるだろう。もちろんウイルスだからと言って宿主にとって有害とは限らない。だとすれば我々は今宿主たる『世界』にとって有益なのか?有害なのか?有益であるためにはいかに振る舞えばよいのか?

ここでもまず問題になるのは筋肉と筋力の如何だ。そして最終的には、我々の筋肉をもって『世界』即ち『この世』というもの自体の言わば脳神経組織とすることができればいちばんよい。そのためにはどうすればよいのか。そのためにまず問題になるのがまた筋肉と筋力の如何なのだ。

私は変えない。『この世という意味での「世界」』における『ゴミの出し方』がいくら変わろうとも、私はそのやり方を変えることはない。

私は変えない。『この世という意味での「世界」』における『掃除の仕方』がいくら変わろうとも、私はそのやり方を変えることはない。

我々の現在のやり方が何者かによって『過去の遺物』とされ、そのやり方によって築き上げた建築物が『前時代の遺跡』と呼ばれることになっても、私はその偉大さ、価値の不変を忘れることは決してない」

「『暴力』も『怒り』と同様である。

『暴力』も場合によっては一つの権利であるが、しかしその場合でもそれを行使することが許されるのは一定以上の筋力を持つ者のみである。その場合、その理由は『怒り』の場合と同じである。許される暴力とは多くの場合『怒り』の感情の身体的表現であり、またそもそも怒りという感情そのものが広義の暴力であるからだ。なぜならば」

「許される暴力の一つは『愛する者を奪われた者』がその原因となった者に向ける暴力である。しかしその場合でもその暴力を行使する者は一定以上の筋力を持っていなければならない。これは国家に対して刑罰という名の暴力の行使を請求する者にも当てはまる」

「そして最も本質的な論点としてすべての『権力』もまた『筋力』にその源泉がなければならない」

「筋権主義の哲学によって人力と手仕事の日々を送る人々とその上に立って金権主義によって全力で贅を凝らした祭りの日々を送る人々という『社会の二重構造』が歴史の中で繰り返されてきた。これはなぜか。

「ノストラダムスの予言した『恐怖の大王』とはインターネットのことである。

恐怖の大王が『空から来る』とは通信衛星やGPSなど、インターネットの運営に用いられる人工衛星システムを指している。

しかしインターネットが悪なのではない。『恐怖』でもなく『大王』ですらない。とりわけそれを実現した人々の『手仕事』は言葉そのままの意味において『偉大』と言うしかない。

『悪』であり『恐怖の大王』なのはそれに便乗してそれをただ一方的に消費し、労せずして我欲のみを満たそうとする者どもの『心』だ。この点においてノストラダムスは間違えた。少なくとも誤解を招いた。『恐怖の大王』は空から来るのではなく人の心から来るのだ。

それが何によって害をもたらすのかと言えば、核兵器でも自然破壊でもなく『インターネットによる我欲の充足の欲求』がその者自身の心を縛る『内なる独裁者』として恐怖をもたらすことが問題なのである。それが人を操り突き動かすことが幾百千万数多の実害を世に放つことになったのである。

而して『マルスがほどよく統治する』とは、『軍』のみがその暴走を止め、正しい生存の道へ導くことができるという意味なのである。この点についてはノストラダムスは全く正しかった」

「女こそ将来の筋権主義体制の主要な担い手となるべき社会集団である。それは、女の歴史は手仕事と人力による労働の時代が男よりもはるかに長く続いたからである。それにより女は『筋権主義革命』の担い手として男よりはるかに成熟しており、大きな革命的力量を有しているのである。

しかし女は長く抑圧されてそれを自覚する機会を狭められてきた。したがって大多数の女は、実際に『革命』の担い手となるためには、先覚者の領導に従うことによって覚醒しなければならない。この先覚者に男が多いのは、現在の歪んだ旧制度の制約のせいで避けることができない。

しかし女たちの筋権主義への覚醒の連鎖反応は、いったん始まればたちまち全世界を覆いつくすであろう。そして覚醒した女たちがいまだ目覚めぬ蒙昧な男どもを鞭打って否応なく目覚めさせることになるだろう」

「したがってそこに至る筋権主義の発展過程の観点から見た人類の歴史は、一つには『女の歴史』として記述されなければならないのである」

「筋権主義の観点からは女にこそ『士道』『武道』『武士道』教育の徹底が必要だったのであり、仏教は釈迦による開教当時からそのように機能する可能性を内包していたのである。釈迦ら初期の仏教指導者が長らくそれに気づかず、僧職から女を排除していたのはかえすがえすも残念なことである。この失敗がなければ人類は筋権主義的に実際の歴史よりもはるかに速く発展していたであろう」

「人間を万物の霊長たらしめる科学技術の発展が、将来『男も出産する』ことを可能ならしめ、同時にまた筋力の成長発展が導く理性が筋権主義体制を確立せしめる。この二つが相伴って両輪となった社会では男女にかかわらず『社会の必要に応じて産み、能力ある者が育てる』ことが可能になるのである。

更にこの正しい方向に沿って発展が進めばその時こそ『個人の欲求に応じて産み育てる』ことが全面的に許される。なぜならその時には筋権主義によって十分に成熟した社会となっており、そこではすべての個人が老若男女問わず儒教的に見た老成、晩成、すなわち『思いのままに振る舞って則を越えない』ようになっているからである」

「こうした女と同様に筋権主義革命の担い手の地位を占めるのは『奴隷』である。ないしは名目は違っても事実上『奴隷』として取り扱われている人々である。その理由は女の場合とある程度重なっている。もっとも女はしばしば女という理由で、時には名実ともに、時には名目は違っても事実上は奴隷として取り扱われてきたのだが」

「筋権主義とは、『力』についての観察と実験、そしてその論者の個人的経験に基づく哲学、すなわち現実認識の方法論に他ならない。従ってこれを、『力』についての科学哲学、及びそれに基づく歴史哲学と言ってもよい。ただしそれは一定の具体的歴史像を伴っている」

「筋権主義の観点から見るまでもなく、財政は軍事に次ぐ『第二の国防』である。而して十分な国防費を確保するための要諦は、社会保障費の削減である。そのためには国民をして『医療に拠らざる健康増進』に取り組ましめることが不可欠であり急務である。それこそ祖国防衛のために国民一人残らず課される義務である。このために最も有用なのが筋権主義なのである。

これが理解されるなら、そのために国民一人一人が自ら進んでまず第一に己の筋力の鍛錬増強に勤しまなければならないのは自明である」筋権

 

「更に読書にも同じことが言える。いや、むしろこれまで述べてきた諸々のこと以上に、読書にはその、それを行うことを物理的に可能にする身体能力条件という意味ではなく、社会的道徳的資格要件として一定以上の筋力を求められるのである。そうした社会的要求に見合う筋力を持たない者は本を読んではならない。他の仕事をせずに本を読む時間があるなら、その前にその時間を使ってそれが許される水準に達するまでただひたすら筋力鍛錬、筋力増進に勉め励まなければならない。

読書は、もちろん見かけ上、言い換えればただ字面を追う、あるいはそうして気ままにその意味を想像して思い浮かべるというだけのことなら、せいぜい生きていくのに最低限必要な筋力で済む。

しかしそれは本来の意味の『読書』、『真の意味の読書』の猿真似にすぎず、万物の霊長たる人間のなすべきことではない。そのようなことは時間の浪費であり、『時は金なり』の観点からそれがいかに罪深いことかは既に述べた。

真の読書には『ものごとを判断する』場合と同様、実は意識するとしないとにかかわらず膨大な筋力を消費し続けているのである。

同時にここでもやはり『筋肉感覚』の問題がある。『筋力の劣等』は『筋肉感覚』の劣悪と歪みであり、他者への、すなわち社会的共感性、協調性、同調性の低劣、最悪の場合は欠如である。そうして行われた読書は当人の精神を歪め、歪んだ精神による言行は程度の差こそあれ、周囲に有形無形の害しか及ぼさない。

文字通り『百害あって一利なし』の読書となる。害あるとわかっていてそれを止めないということがあるだろうか。許されるだろうか。『悪をなす者を止めないのは悪をなしているのと同じだ』と古人は言ったではないか。『義を見てせざるは勇無きなり』と言うではないか。だからその域の筋力に達していない者が本を読んでいるのを見たら、それをやめさせて筋力を鍛えさせなければならないのである。

更に言うなら『生業(なりわい)』に必要ない読書はもちろん『贅沢(ぜいたく)』である。『時は金なり』の観点から言っても、その者の生業に必要ない本を読むならば、その者にあらゆよほどの『余裕』がなければならない。時間、また金銭をはじめとする経済、精神、そしてもちろん筋力である。そのすべてにおいて余裕がある者のみが己に生業に関係ない本を読むことを許される。そうでない者がそうしているのを見たら、これも直ちに止めて禁じなければならない。それがそれを知ってしまった者の社会的すなわち道徳的義務である。世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界」

「『リーダーとフォロワー』という関係を考える時、筋力において劣る者は絶対的にリーダーに対する意味でのフォロワーである。しかもそのフォロワーの中でもその状況における絶対的リーダーへの絶対的従属者というタイプのフォロワーである」

「筋力において劣る者は自分のリーダーを自分で選ぶことは許されない。その資格がなく、したがってその権利がない。それは筋力において劣っているからである」

「筋力において劣っている者はその状況における絶対的リーダーを自分のリーダーとすることしか許されない。それを拒む資格がなく、したがってその権利がない。

絶対的リーダーはもちろん多数決によって決められるが、その選抜の過程はどうあれ、結果が正当であるかの判断基準の少なくとも一つは選ばれたそのリーダーの筋力による。だから筋力において劣っている者は次のように選択しなければならない。まず自分がリーダーに選ばれたら固辞しなければならない。不義だからである。

また自分以外の者で自分と同様に筋力において劣る者がリーダーに選ばれた激しく反対して排撃し、その就任を阻止しなければならない」

「筋力において劣る者は趣味嗜好も自分で選ぶことは許されない。必ず自分の絶対的リーダーが命ずるか少なくとも勧めるものを自分の趣味嗜好としなければならない。なぜなら再三述べてきたように筋力において劣る者は筋肉感覚が劣っているのであり、そのような者は自分の誤った感覚を信じて行う選択が必ず社会に有害な結果をもたらす。そうしてその者が社会に有害な結果をもたらすその選択は、結果としてその者自身にも有害な結果をもたらす。

なかでも筋力において劣る者が虚構の創作物を趣味嗜好とすることは、論外の言語道断で、あってはならないことである。なぜなら、たとえその作品が筋力に優れる者にとっては有益な滋養である場合としても、筋力において劣る者に摂取されると、心身にとって有害無益な病原体としかなり得ないからである、

更にその者自身がその病原体の培地となり、そこから蔓延する社会的害悪の起点となり、またいまだ健康健全だが筋力をはじめ精神にかかわる弱点、リスクを抱えた人々への感染拡大をもたらすのである。その害の規模はまさに想像を絶しており、表現のしようがないほどであり、『精神のパンデミック』である」

「筋力において劣る者は『自分の意見』を持つ資格がなく、したがってその権利がない。筋力において劣っているということは筋肉感覚が劣っているということを意味している。筋肉感覚が劣っているということは

他者との共感性すなわち協調性すなわち同調性が劣っているということである。そうした者は他者を阻み害する意見しか持ち得ない。誰がそのようなことを許容できるだろうか。巣推したものに対しては、せいぜい、同じように社会的な共感性すなわち協調性すなわち同調性が劣っている者、すなわちその者と似た他の者を攻撃するように正しく方向づけ導いてやることしかできない。

そうして者どもが集まって己の誤った意見を声高に主張して正しい社会を歪んだ方向に進めることだけは絶対に阻止しなければならない」

「筋力において劣る者は自然環境について発言してはならない。自然環境を正しく認識するとは、最も筋肉感覚を必要とする領域の一つである。筋力において劣る者は、だから自然環境については誤った認識しか持ち得ない。特に所謂『環境破壊』について語ろうとするなら自ら例えば命の危険を伴うような深山幽谷に分け入って生還するような能力をもってしなければ、即ち『探検家』『冒険家』でなければ自然環境については信頼するに足る見識を持つことはできない。

社会的に関心や影響度の高い分野であればあるほど正しい見識の発信が求められる。それは発信者が備えなければならない筋力がそれにつれて大きくなるということでもある。

逆に筋力において劣る者が許される範囲を越えて発言する分野の社会的関心や影高ければ高いほどその垂れ流す害毒も大きくなるのである」

「所謂『人間力』は必ず一定以上の筋力を要件とする。場合によってはその者の筋力と重なり一致する。更には筋力自体がその者の『人間力』である場合すらあるだろう。なぜなら『人間力』は『人望』としてしか現象しないからであり、またその『人望』自体がその者の『人間力』そのものである場合すらあるだろう。世界世界世界」

「この『筋力において劣る者は自分の意見を持つことを許されない』ということから様々な禁忌と義務が派生する。その一つは歴史認識、より広くは過去の出来事一般についての認識に関することであり、もう一つは法律の制定に関することである。

特に『過去の不祥事』については特にそうであり、筋力において劣る者が語ってはならないことである。それはひとえにその筋肉感覚が劣っているところから共感性すなわち協調性すなわち同調性すなわち社会性が劣っているということであり、そのような者が『過去についての記録や記憶』、中でも『史料』と呼ばれる者〔ママ〕を用いた『歴史』という公共の共有材を取り扱うことは許されないのである。なぜならそうした者は筋肉感覚において劣っているが故に共感性すなわち協調性すなわち同調性すなわち社会性が劣っているか甚だしくは欠如しており、そのような者は何を扱い用いても自分自身の感情に突き動かされるままに私利私欲わがまま勝手に費消し、またそうした動機から一人一身のみの主観に基づく否定的な感情から他者を害することも多い。言葉は刃物となり武器となるものだが、『歴史』なかでも『過去の不祥事』についてのそれそのは最たるものである。筋力において劣る者はそれを他者を害する武器としてしか用い得ないということが最初からわかっているのだから、これを取り扱わせてはならないのである。そうした者に教えなければならない

のは『伝統的な宗教道徳』であり、それに基づいた日々の日常生活の一挙手一投足をいわば『儀式』として理由云々以前の『自明の習慣』として守らせることである。そうした者に『歴史』を教えるな。『儀式』を教えよ。書を読ませるな。歩かせよ。

同じことは法律についても言える。筋力において劣る者は協調性すなわち同調性において劣るかまたは自分一身の主観的感情に都合のよいルールしか発想しえない。そうした者に法律の制定はもちろん起草、また古今東西いかなる既往の法律への批判も許してはならない。

それはその動機の価値観が信頼されず、自分一身の主観的感情に合致してそのためにのみ都合のよいルールしか発想し得ない。そうした者に法律の制定はもちろん起草、また古今東西いかなる既往の法律への批判も許してはならない。それは、その動機となる価値観が信頼されず、自分一身の感情的欲求充足のために他者を害するものでしかあり得ないからである。こうした者には法律について考えるということをさせず、現行の法律を『宗教道徳』として『儀式』として守らせねばならない。

その『宗教道徳』の基準とは何か。それはその筋肉筋力において劣る者が置かれた状況におけるその者にとっての『世界歴史の儀式としての絶対的リーダー』が奉ずる、またはそのフォロワーに対して推奨する『宗教道徳』である。そしてその『宗教道徳』について『考える』こともまたしてはならない。あくまで『儀式』としてその勧める具体的行動を忠実に日々実践実行してそれをリーダーの別名あるまで反復し、またその行動の変更を命じられたら躊躇なく変えなければならない。

つまり筋力において劣る者にとっては『法律』ではなく『自分にとっての絶対的リーダー』からの命令のみが実在しているのである。こうしたことから『民主主義』なかでも『議会制民主主義』の基礎が、参政権を与えられる国民の筋力に置かれていることが再認識されなければならない。これはあまりにも自明のことであるが故に意識されず念頭から去り、その結果多くの人々の脳裡から忘却されるに至ったのであるが、改めて想起されねばならないのである。世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史儀式として世界歴史世界歴史世界歴史儀式世界歴史世界歴史すなわち社会性世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史世界歴史界って世界『』世界過去世界過去世界世界世界」

「他方においてかつて金権主義と強権主義の時代において筋力の資格を有している人々、すなわち身体的条件から認められる文字通りの『天賦人権』を有しているにもかかわらず、その権力の行使を強権や金権によって阻まれた人々が多くいたことは確かに残念なことであった。而してここにこそ所謂『近代的国民国家』が人間の自然的本性に最も合致した政治制度である所以があるのである。世界歴史」

「筋力において劣る者は職業や所有物の選択においてもその者の絶対的リーダーの選択に従わねばならない」

「筋力において劣る者に対する自己選択権の制限ないしは禁止はその者に死ねと命ずるものではない。逆だ。筋力において劣る者は必ず自分にとっても有害な選択をするが故に、その者が少なくとも身体的に生存しようとするなら、その者自身の死につながる誤った選択を回避するために、必ずその者自身で選び取った選択肢は自分で誤りと判断し、自分にとっての絶対的リーダーの選んだ選択肢を実際の選択として選び取らねばならないのである」

世界世界()筋力()筋力()()()

 

「筋力において劣る者には、そうでない者には求められない程度の『自省・自戒』が求められる。これは筋力において劣る者に求められる『感謝・尊敬』と関係している」

「筋力において劣る者には自己の過去の否定的な事象について常にその原因を自分に嫁することが求められるし、実際にそうしなければならない。それは事実そうであるかではなく、道徳的な徳目上の理由からである。また事実として他に原因がある場合ではあっても、筋力において劣る者は、それを追及してはならないのはもちろん、それについて口にしてもならない。ヴィトゲンシュタインの『語ることのできないことについて語ってはならない』というのはこういう場合のことも言うのである。こうした道徳上の徳目には科学的な根拠がある。それは、筋力において劣る者が課される他の権利制限と同じく、筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しており、そうした状態の者が過去を振り返って自分及び自分を含む集団の過去の不祥事、否定的な事象の原因を考える場合に、自分以外の他者に原因があるという方向に思考が向くときには必ず自分一人のわがまま勝手な感情を満たそうとする衝動によって自ら認識を歪めることから免れることはできないからである。

そして過去の自分の失敗への対案も、絶対的なフォロワーであらざるを得ない筋力劣者は、筋力優者、その中でもその状況での自分にとっての絶対的リーダーに従わねばならない」

「筋力において劣る者は魯迅の作中の『阿Q』であることを道徳的に余儀なくされる」

「筋権主義は強権主義と金権主義の肯定的側面の弁証法的発展の帰結であり、その起源の一端は河川の治水にある」

「筋力において劣る者は、そうでない者が嘘をつくことを許される状況においても、嘘をつくことを許されない。なぜなら筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しており、したがってその者がつく嘘の時と相手、状況以前に、つまりそれらがどうであれ、そのつく嘘の内容においてわがまま勝手で、自分の安楽快楽以外を考慮せず、他者を害する歪みから免れることができないからである」

「筋力年齢と精神年齢は相関しており、特に生後から筋力が上昇していく間は比例している」

「筋力が子供のままの者は、疾病や身体器質の物理的障害等の一部例外を除き、精神も子供のままである」

「一定以上の筋力を持つ者は互いに切磋琢磨しながら、時代に合わなくなった強権主義と金権主義による圧迫を拒むために共に闘う権利を有する。それと同じように筋力において劣る者は自分たちの不正な権利要求を互いに抑止し合わなければならない。それだけが、筋力において劣る者が持つことを許される『社会的・政治的な思想』であり、『社会的・政治的選択肢』である」

「礼儀作法の立ち居振る舞いの所作は筋力鍛錬のトレーニング、訓練である。然るが故に

人は相手の礼儀作法の所作からその筋力を、そしてそれによって相手の精神年齢を推し量るのである」

「筋力において劣る者は、そうでない人々への感謝と尊敬、そして自分がそれに欠けたり不足したり反したりするところがないか常に反省しなければならない。孔子の『日々三省』がこれに当たっている。

なぜそうしなければならないのか。

それは筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如していることを示しているからだけではない。更にそれ以前に筋力において不足、更に欠如があるということはそれだけですでに自然界での生存の必要条件を満たしていないということだからである。

つまりそのような者が生きているということはそれ自体がそうでない者に助けられて生きていることの間接的証明なのである。

それは筋力において劣る者はそうでない者に必ず負担をかけているということであり、筋力において劣る者にとって『耐え難い』、更には『耐えられない』労力をそうでない人々に委託外注して負担を外部化し、自らの負担を軽減して過労による即死を回避しているのである。

その代わり、その負担を引き受ける人々は、それを引き受けなければ自己の生存可能性の拡張をはじめ、自分のために使うことのできる時間と労力を、筋力において劣る者が即死しないようにするために使うという自己犠牲を果たしているのである。

ここでは筋力において劣る者に対してそうせずに潔く死を甘受せよと言っているのではない。ただ、このことを自覚し、感謝と尊敬と反省の営みを倦まず弛まず続けなければならないと言うのである。

また、特に近代以降に顕著なことであるが、筋力において劣る者は科学技術に助けられて生命を維持している。したがって筋力において劣る者は自分を助けてくれている無数の個人及び人間集団への感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省しなければならないだけでなく、自分の生存を支えてくれている科学技術自体、またその創造者や過去現在未来にわたってその恩恵の持続と発展を支える人々にも感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省しなければならないのである。

だから筋力において劣る者は科学技術を批判してはならないことはもちろん、それを『突き放して』あたかもその上に立って見るようなことも人として道徳的に許されない。科学技術によりすがりよりかかって生きており、そうせずには露命をつなぐことのできないそのあり方から言って人としての道義にもとるからである。『人でなし』の名に値する。

しかしながら筋力において劣る者は、まさに筋力が劣っていることそれ自体が原因となってそれを自覚することは困難を極める。筋力において劣る者は筋肉感覚において劣っており、それは共感性、すなわち協調性、すなわち同調性において劣っているか甚だしくは欠如しているからである。それがその者のその自覚を妨げるのである」

「このように筋権主義の観点は常に人間と自然界の関係にかかわっているのである。それは人間の外界の自然とのかかわりだけでなく、人間の身体という内的自然とのかかわりについても言える。而して法律をはじめとする社会制度についても言えるのである」

「筋力において劣る者は科学技術のすべての分野にひとしなみに感謝と尊敬を捧げなければならないが、その中でも医学に対するそれが特段に意識されなければならない。これは私が医者だから言うのではない」

「筋力において劣る者は誰のおかげで生きていられるのかということを絶えず意識する、すなわち自問自答することを人として道義的に義務付けられる。人でありたいと思うなら」

「筋力において劣っているということは『人である』『人間である』ということについて不足があるということを自覚しなければならないということである。しかしこのことがまた筋力において劣る者にとっては難しいことなのである。筋力において劣る者は疾病や身体器質の物理的障害等の一部例外を除き、『人格遅滞児』であるが故に」

「筋力において劣る者は自国の指導者に対してはたとえそれがどんな人物であろうとも感謝と尊敬、そしてそれについて不足や欠如、反するところがないか反省を怠ってはならない」

「石川啄木は『友がみな我より偉く見ゆる日よ』とうたったが、筋力において劣る者はこのような精神においてそれを甘んじて受け入れて生きていくことを、人間である以前にいち生物の道徳として求められ義務付けられるのである。

これは生物として欠けるところ、不足なところに由来するのであるから、社会的な問題ではなく、自然界の厳しい掟の問題である

筋力において劣る者は『身の程を知って口を慎む』ということが、そうでない者以上に求められる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

」(佐和山清太郎『筋権党宣言』)